メモ帳

千葉の田舎で生まれ、東京の出版社で働いている20代。ノンフィクションを中心に、読んだ本や観た映画についてのメモ代わりに書いています。

映画の感想:『オデッセイ』(火星の人)

この映画はボウイの『Starman』の流れるシーンがクライマックスである。あそこが作品で表現したかった全てである。正直、その後の地球着陸などは余談でしかない。

平田オリザの「問いの立て方」を基にすると、この作品はそれが非常にうまくいっている。とても明快なのだ。だから、開始30分の作り方さえ間違えなければ、あとは各人の懸命な努力や葛藤を丁寧に描けば良いだけだったのである。

 

―余談

この映画ができるまでのプロセスが非常に面白い。

NASAマニアの書いたブログが一部で人気を博し、Kindle自費出版AmazonのSFランキングで上位進出⇒それを見た出版社がオファー⇒アメリカで大ヒット⇒映画化

『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』もそうだったが、こうした流れはすごいなあ。新しい形のアメリカンドリームである。(もはやアメリカであることすら求められていないし)

【美術展見聞録】雑貨展

「動きのカガク」のキュレーター(?)が菱川勢一だったのに続き、今回の「雑貨展」は深澤直人

プロダクトデザインってやはり面白い。ベルリンでバウハウスミュージアムを訪れた際にも感じたことだが、「ほらほらこれが美術作品ですよ~!」ってならないのが良い。生活にひそむ美しさというか、お高くとまらない。日常に、大衆に寄り添っている。

デザインサイトは「デザイン」をキュレーションするのが本当に上手だ。見せ方もわかりやすくて、あの独特な展示スペースの形状を上手く使っている。メリハリがついている。サブカル系にはたまらんのだろうな。

 

※余談(アイデア

「動きのカガク」は、新体操のリボンみたいなやつを遠隔操作できる作品が面白かった。あれを応用して、「IoT猫じゃらし」を作りたい。スマホのセンサーを通じて、実家に設置された猫じゃらしが動く、みたいな。これがあれば独り暮らしの人や出勤中でも、猫と触れ合うことができる。ついでにモニター機能が付くことで、「ペット大丈夫かなあ?」という不安も和らぐ。

【美術展見聞録】キセイノセイキ

ディズニーランドかってくらいの長蛇の列をなすピクサー展を横目に向かう。案の定、人は少ない。

非常に興味深かったのは、報道カメラマンの横田徹さんが撮影した映像が展示されていた点。美術展が「美術」の枠を拡張しつつあることがわかる。(今回のテーマは「表現の自由」にフォーカスしているのでこうした作品も含まれてくるのは当然とも言えるが)

女子高生(かわいい)がスミノフを飲んでいる写真や、空想(で終わってしまった)戦争を振り返る展示などなど、「何が、なぜ、誰によって、規制されるのか」を考えるのは面白かった。

個人的に「JAPAN ERECTION」という作品+映像に惹かれた。シンプルだけど作品のエネルギーがストレートに伝わってくる。

↓(局部が露出されているので閲覧注意)

https://www.youtube.com/watch?v=7G46YMyQjBY

 

東京都美術館会田誠が物議を醸した(醸された)「檄」を展示した「ここはだれの場所?」展など、キワドイ線を攻める姿勢が良い。(ピクサー展の様なキャッチーなものも含めて、トータルで展示スケジュールのバランスがとれている)

 

【美術展見聞録】谷崎潤一郎文学の着物を見る+『細雪』の感想

会場内は思ったよりもにぎわっていて、着物をみにつけた奥様方が多かったのが印象的だった。ここを訪れた後に『細雪』を読んだので、作品への満足度は上がった。

 

ついでに竹久夢二の方も見れて満足。内藤ルネ水森亜土など20世紀の日本を代表するイラストレーターの流れを知ることが出来て良かった。あまり詳しくない分野だけになおさら。

 

※『細雪』の簡単な感想

文章が丁寧で美しい。中で出てくる手紙や歌の読みやすさたるや。優美で清らかで、無駄がない。美しいものを追い求めたら必然的に機能的になったのだろう。(機能⇒美という順番の場合が多いが、個人的に谷崎は逆の道をたどったのだと思う。)

 

中身に対して突っ込むと、雪子のような人間は僕には無理だ。ああした美しさは俺には耐えられない。妙子のような妖婦型の方がよほどマシである。

物語の最後における(妙子が流産するのはまあ当然の流れだが)雪子の下痢は彼女の人生の「しょうもなさ」を表した、ある種の谷崎の皮肉ではないかと考える。きっと違うけれど、僕は勝手にそう思い込んでいる。

【美術展見聞録】MIYAKE ISSEY展: 三宅一生の仕事

「明日来ていく服を提案する」というウチのスタイルとはベクトルが異なるが、面白かった。

シリコンを流し込んでかたどった服や、サーキュラーという丸い一枚の布からかたどった服などを見て、自分が今まで想像していたよりも、服ってもっと自由なんだなと感じた。たしかに、服って最も身近なプロダクトデザインだなあと。そうした観点から衣服を捉えていくのは面白い。

 

余談だが、人事が『子供はわかってあげない』を好きだそうで嬉しい。やっぱり、自分の好きなものを好きな人は好きだよね。思い込みでもいいから「感性が合う」ことはとても気持ちの良い瞬間。

映画の感想:『レヴェナント』

表現したかったものは『野火』と少し似ていて、映像世界が対比できるような作品だなあと感じた。かたやフィリピンの熱帯地獄、かたや西部開拓時代の極寒世界。どちらにも共通するのが、圧倒的な自然とそこで血みどろの戦いを繰り広げる男たち。

やはり撮影監督のエマニュエル・ルベツキは天才。映像の質感というかなんというか(自分に映像を見るセンスがあるとは思えないが)、あまりに陳腐だが「美しさ」が図抜けている。それぞれにあった質感を出せるのは本当にすごい。

ストーリーはまあ普通。悪くはない。今回は奇想天外な物語を作るのではなく、あの極寒のサバイバルを表現したい!というのが出発点にあったのだろう。

とにかく映像のすさまじさたるや。特にディカプリオが馬の死体からはらわたを引きずりだし、その中で眠るシーンは圧巻。

映画の感想:太陽を盗んだ男

1979年の日本でこんな映画が公開されていたのか…!という衝撃。今日の映画やアニメで表現されている大抵のポリティカルフィクションより、圧倒的で馬鹿馬鹿しくてスタイリッシュで面白い。電電公社逆探知ストーンズ公演の芝居は、『ダークナイト』における都市の盗聴と同じ問題(テロを封じるには市民の自由を侵害せざるを得ない点)を描いていると言える。

 

ただ、終わりにかけて少しメロドラマっぽくなるのが残念。ゼロが死ぬくだりも、そんなサラッと死ぬの?みたいな。ストーリーのために強引に殺してない?

特に最終盤での二人の会話(「あなたは犬だ!」「何が悪い!」のくだり)は蛇足だと感じた。そんなキザったらしいことを言わないのがジュリー演じる城戸の、他のテロリストと全く異なる良い所だったのに。あと菅原文太は流石に不死身すぎ(笑)何発撃たれてるんだよ(笑)というか撃つ方も心臓か頭を狙えよな。

とはいえ全体的に見ればとても面白い作品で、特に城戸のキャラクターは当時として画期的だったのではと思う。(「原爆作ったけど何したいかわかんねーわ」みたいなところ) これを現代風にリメイクしたら「原爆作ったから安価で声明出す」ってスレを立てるのだろう。

だからこそ、もっと城戸の愉快犯、とすら言えない冷めた心情を象徴するシーンがあればよかったのかな。例えばビルの屋上から5億円をばら撒くシーンも、城戸が追いつめられる前にあれば、彼の犯罪の性格を的確に表現できていたような。

そう感じるのはポリティカルフィクションが蔓延した30年後の現在だからなのかもしれないか。

 

余談だが、河瀬直美監督との対談での発言が色々と面白かったのでメモ。

 

●河瀬
 原爆の作り方とか、かなり調べてありますよね。スタッフの方が調べたんですか。

■長谷川
 そこは大事な部分だからな。そこがいい加減になってしまうと、映画全体がだめになってしまう。原爆については、スタッフに調べさせた。

 スタッフは体育会だから。相米(慎二)でも、俺の目の前では「はい」と言う。
 でも、相米が撮って来れなかった絵もあった。沢田研二の住むアパートの屋上でアリを撮ったが、アリがいい芝居をしない。何百フィートも回して使える一秒がなかった。

 猫がプルトニウムを食べるシーンの芝居は大変だった。最終的にはマタタビを使った。猫屋は、「(殺しても代わりは)何匹もいますから」と言うが、殺すのは嫌だった。相米が何百フィートも回して撮った。スローモーションだから、ハイスピード撮影。

 カーアクションのこと。皇居も首都高も撮影許可申請したが、当然下りなかった。でも、それで止めたら映画は成立しない。
 皇居のシーンは、7台のキャメラで追った。使ったバスがオンボロでスピードが出なかった。皇宮警察の警官には、「団体さんの駐車場はあっちですよー」なんて言われてしまって。仕方がないからコマ抜きをして、バスがスピードを出しているように見せた。撮影の時、俺が現場にいなかった。もしいたら、もう一回やらせただろう。そしたら、パクられるやつも出ただろうが。

●河瀬
 色んな綱渡り。その原動力はなんですか?

■長谷川
 許可が出ないことを違法でやるのは楽しいじゃないか。ガキが柿食うのとか。その映画現場バージョンだな。本質的に悪いと思ってない。本当に悪いことというのは、死んだ猫を撮るために猫を殺すことだ。

 首都高でのシーンは、のろのろ走るクルマで流れを止めて、その前何キロかを空けて撮った。製作担当は、延べ2、30名パクられている。

●河瀬
 その勇気というのは。

■長谷川
 勇気じゃないよ。柿食うのは勇気じゃないだろ。やんちゃというか。
 映画作るやつがそういうもの。

http://www.twitlonger.com/show/gmn5j2

 

さらに余談。色々ググって見つけた記事から引用。自分もこれには同意。全編に渡って音楽の使い方は工夫されていたと思う。

僕が「この映画の中で一番好きな音楽の場面は?」と聞かれたら、即答で首都高のカーチェイス・シーンと言うでしょう。その理由は普通なら躍動感や緊張感のある音楽が付けられる場所だと思うのに、ここでは全く逆でメロディのギターが静かに泣き、美しいストリングスが流れてくるからなんですね。 理由のない怒りや不満、どこへも向けられない苛立ち、行くあてもなく暴走する主人公の心情をうまく表現しているなぁ、という感じでとても印象的です。監督の指示もあったかもしれませんが、こうゆう曲を持ってくるセンスは素晴らしいと思います。

http://rittor-music.jp/bass/column/ilovebass/723

 

 

さらにさらに余談。ポリティカルフィクションに関しては「自分ならどう作るか、どういう展開にするか」をつい考えてしまうのだが、城戸のテロリスト像はイメージする姿に割と近い。

なぜなら「コミュニケーション不可能」なテロリストが一番怖いと思うから。そもそも民主主義的な対話自体が成立しない相手。無条件に暴力だけ差し出してくる人間。力が強かったり邪悪な考えを持ってたりする人も嫌だが、それ以上に「何を」「何故」するのか理解できない人ほど嫌なものはない。そもそも反論の仕様がない。つまり、こちら側も有無を言わさぬ暴力でしか応答できない相手はキツイ。(イスラム国を念頭に置いていることは言うまでもない。)

ただ、ポリティカルフィクションにおいて「こんなテロあったらどうしようもなくね?」という問題を提出するだけではいけないと思う。それに対して社会の側がいかに応えることができるか、その可能性を含めて提出しないと、一人の市民として卑怯だと考える。