二流社会人のメモ帳

興味のあることを徒然なるままに独りごちる。

芸術の評価における「質」の問題

この前のDOMMUNEで放送していたメディア芸術祭の関連企画で、文化庁長官の方がしていた芸術の話が非常に興味深かった。曰く、芸術作品には①メッセージ②クリエイティヴィティ③クオリティの3つの要素が絡み合っている。思想背景が①で手法などの新しさが②、細かい部分を含めた質が③になる。

従来、高く評価される芸術は①②③が揃っていた。しかし現代芸術では闇雲に②ばかり追いかけるようになってしまったため、受け手からするとちんぷんかんぷんなものが出てくるようになった。そうして「現代芸術は意味が解らない、つまらない」と思われるようになってしまった。

現代において「古典」と呼ばれる作品も、当時から「古典」だったわけではない。それが時代の淘汰を経て生き残るのは①②だけでなく、何よりも③が優れているからである。ホメロスしかりシェイクスピアしかり。

 

たしかに言ってしまえば、宇野常寛が言うところのアーキテクチャー(≒環境)が時代とともに変われど、それを利用して作る物語は人間の歴史上変わらない。例えば「ロミオとジュリエット」は、設定は王家の争いだが、これは現代版だと巨大企業同士に置き換えることができる。他にも最近では「her~世界でひとつの彼女~」なんかも、アーキテクチャーをうまく組み替えただけで基本的な物語は2000年前と何も変わらない。(もちろん、だからといって凡作ではない。むしろ、この映画は③のクオリティの高さもあって非常に評価されている)

 

もちろん、時代の進化とともにある種のマンネリ化が進み、かつ新しいこともすぐにネットで拡散、模倣の流れを急速に辿ることとなる。そのような世界では③を疎かにしてでも②を追い求める姿勢はわからなくはない。というか、時代が③よりも②を高く評価する空気があるとも言える。

どの作品も、作品としてではなく何かのインスパイア、種として消費されるだけという現状を考えると、③を追い求めることは時に虚しいのかもしれない。

 

②のクリエイティヴィティとはユニークネスとも言い換えることができる。すなわち、他の人が誰も思いつかないような独創性である。だがそれは難しい。全てのアイデアは何かの模倣であるし、今の時代においてユニークネスはミクロのレベルでしか生まれない。もちろん常に新しい発見を求める姿勢は大事だが、それには必ず③のクオリティを伴う必要があるのだ。そうでないと、小手先に走ったメッキとなってしまう。「変わってる=面白い」とはならないのだ。

 

名盤と言われる音楽アルバムや絵画、文学には必ず③がある。もちろん①②も大事だけど。しかしプライオリティとしてはまず③のクオリティなのである。

個人的に①②③が揃っているということで思い浮かべる作品は、ベタだが「ゲルニカ」である。これは、ただ変わっている作品ではない。超絶技巧を持ったピカソがあえてあのような形式に変化し、内戦の悲しみというメッセージを載せているわけだ(美術あまり詳しくないけど)。あとは、三島由紀夫も①②③を兼ね備えた稀有な作家である。仮面の告白は②よりで、金閣寺は③よりかな。安倍公房とか村上春樹も、変わっているけれどその質が非常に高いからただの「変人」で終わらなかったのだと思う。

もし村上作品のクオリティが低かったら、彼の幻想的な文章は「意味不明」の一言で切り捨てられていただろう。彼の巧みな比喩能力や世界観の構成力が彼を一流足らしめている。

 

だいぶ脱線したけれど、①メッセージ②クリエイティヴィティ③クオリティの3つの軸で物事を見るのは非常に有効だと感じました。

 

以上めも