メモ帳

千葉の田舎で生まれ、東京の出版社で働いている20代。ノンフィクションを中心に、読んだ本や観た映画についてのメモ代わりに書いています。

映画の感想:処女の泉①

早稲田松竹でイングマール・ベイルマン特集を見てきた。『野いちご』『処女の泉』の2作品。野いちごの主人公は自分と似ている所があり、なんだか切なかった。三島由紀夫に「お前は心の底では冷たいし野蛮な人間なのに、それを隠して紳士ぶるな!」と一喝されるタイプ。

ただ、今回取り上げるのは『処女の泉』の方。「神の沈黙」を扱った作品なので、その主題の重鎮である遠藤周作の作品たちを久しぶりに引っ張り出してみた。(自分は宗教が嫌いなのに、(だからこそ)、こういうテーマの話が好きだなと思う)

さて、中でも彼の代表作である『沈黙』は「神の沈黙」に真正面から切り込んだ作品である。これと『処女の泉』を比較してみた時の違いが面白かったのでメモする。

 

まずそもそも、「神の沈黙」とはキリスト教のような唯一神信仰における大きな課題。要は「なんで私(たち)はこれだけ辛い思いをしているのに、神様は黙っているの?」という悩み。古くは身分格差や疫病による身内の不幸、最近では3.11の時にこのような感情を抱いた人も多いだろう。助けてよ!とまでは言わないが、せめて何らかの「声」をかけてほしいという心情はよくわかる。

 

ということで、当然『処女の泉』においてもこの葛藤が展開される。物語の筋はググれば出てくるので割愛。まずは、主人公のキャラクター設計で気になった点だけを述べる。

主人公のカリンだが、いかにも清らかな乙女といった感じ。ブロンドの髪に透き通る白い肌は、まさに「天使のよう」という比喩表現がぴったりである。これは「敬虔なクリスチャンの乙女(=処女)」で私たちがイメージする姿そのままである。要するにテンプレート的。また「処女性」が近代以前の宗教において極めて重要だったことは言うまでもない。この造形は、「中世北欧の敬虔なクリスチャン(の乙女)」の表象として非常に面白いと思った。

 

では本題の「神の沈黙」についての考察に移るとする。結論から言えば、この主題における「オチ」は大きく2つに分かれる。

1つは「『沈黙』が答えになる」というパターンで、もう1つは「人が『神の声』を聴く」パターンである。(人が勝手に「自分なりの解釈=答え」を見出すという意味では、どちらも同じなのかもしれないが…。)

まず前者だが、これは今回比較対象とする『沈黙』が顕著な例だ。この小説の筋もググれば出てくるので詳細は省くが、神様が沈黙しっぱなしで修道士は棄教してしまうってのが大事な部分。棄教の直接的な原因は拷問にかけられている民を助けるためなのだが、それまでの過程で主人公の心根には確実に「神の不在による不信」という意識が流れていることがわかる。そしてこの小説の場合、「神の声」はついぞ聞くことができなかった。(正確に言えば「沈黙を聞いた」というパラドックスが生じているのだが、「声はなかった」わけだ。)

ただ、逆に言えば「沈黙」こそが神の答えである、とも言える。その沈黙をどう受け止めるかは人次第だが、恐らくこの話の主人公と同様に(一旦もしくは永遠に)不在=不信となる場合が多いだろう。ただもちろん、沈黙を一つの解答と考えて信仰心が強まる場合もある。例えば「神はまだ私の信心を認めていないから沈黙なさっているのだ、だからもっと修身せねば」といった感じ。おめでたい脳みそだが、これはこれで幸せかもしれない。

『沈黙』の主人公は、そのどちらとも言えない微妙な関係でこの「沈黙」を捉えていた。結局主への不信はなくなり、今までとは違う形の愛が生まれた。この話は難しくてまだ理解しきれていないのもあり、割愛する。とにかく大事なのは、「沈黙が神の答えであると理解したこと」である。

 

さて一方、『処女の泉』において神は沈黙しなかった。「神の声」は、ラストシーンでカリンの遺体があった場所から流れ出た泉である。もちろん物質的な意味では、カリンの遺体の下から水がわき出たことは偶然である。ただ人間は、そこに意味を見出さずにはいられない。

処女が純潔を辱められた後に殺され、その下から流れ出る泉。水が「浄化・再生」の象徴であることは、想像に難くない。カリンの父であるテーレ(彼もまた敬虔なクリスチャン)は、この亡骸の上に教会を建てることを神に誓う。これは、復讐で娘を犯した悪党たちを殺したことへの償いである。

テーレは「主よ、あなたはなぜこうまでなっても沈黙しているのですか」と独白している。ここまでは遠藤周作の場合と同じだが、この後で泉が流れ出たことが決定的な違いである。ここに「神の声」を見出せたテーレはまだマシであり、だから「処女の泉」は後味が悪くない映画となっている。本作は決して「バッドエンド」ではない。もちろん物語自体は悲惨な話だが、最後に「救い」が待っているからだ。

 

ということで、物語としてよくあるケースは『処女の泉』の方だし、オチとしてすっきりする。『沈黙』はすっきりとはしない話だし、このオチが選考委員には気に入られなかったため遠藤周作ノーベル賞を逃したという話も一説にある。(そりゃ、西洋人から見ればこの話を好むのは難しいだろうなあ。)

まあどちらを好むかは人それぞれだし、両方とも非常によくできた素晴らしい物語である。

ただ個人的には、『処女の泉』の綺麗な展開には少しご都合主義な所を感じてしまう。寓話としては面白いが、自分は『沈黙』方がリアルを感じられて好きである。単純に、自分が宗教を根底の部分で嫌いだからというのが最大の理由なんだけどね。