二流社会人のメモ帳

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映画の感想:処女の泉②

『処女の泉』を見て感じたことの続き。①が「神の沈黙」についてなら、②は「罪と罰」がテーマ。

 

罪と罰」という概念は、(ドストエフスキーを読んだことがなくても)誰もが言葉としては知っているはず。気になったのは『処女の泉』において、各キャラクターの犯した罪とそれに対す罰がどのように描かれているのか。

 

まずはインゲリ。彼女の罪は大きく2つある。1つは邪教であるオーディンに対して、カリンの不幸を祈ったこと。もう1つは、カリンが犯されるのを黙って見ていたこと。この時物陰から見ていたインゲリは逡巡しているし、悪党への恐怖もあって石を投げられなかったという一面もある。ただ、結局「何もしなかった」ことに変わりはない。

彼女の罪で問題となるのは、後者の方である。だって、前者の方は仕方ないじゃん!っていう。生まれてから今に至るまでの悲惨な生活や扱いを鑑みると、このような感情を抱くのは人として当然とも言える。もちろん良いことではないが、ある意味人間らしさを表す行動である。

それに対して問題なのは、カリンが凌辱される間「何もしなかった」ことの罪である。これは遠藤周作の『海と毒薬』の主題でもあるが、「何もしないこと」の罪は思いのほか大きい。それは、いじめにしろ戦争にしろ「黙って見ていた奴が一番の悪人」って話と同じである。もしインゲリがここでカリンを助けたら、それは人間性の回復と呼ぶことができた。だが、そうはならなかった。(まあ、カリンを助けたら話が終わっちゃうからね。)

この映画のラストシーンで、カリンの泉から流れ出た水で顔を洗うのはテーレとインゲリである。これは自らの罪(=穢れ)を清めるためであるが、後述するテーレと比べれば彼女は自らの罪に対して極めて自覚的である。

 

続いてはカリンの父テーレ。本人の告白からもわかるように、インゲリの罪は物語の中でも大きく取り上げられる。だが、それに対してテーレはどうか。

彼は羊飼いたちを殺した後、その償いとして教会を建てることを神に誓う。だが、最も自らの罪に自覚的であるはずのテーレが、最も簡単にそれを乗り越えているのは如何なものか?もう少し、罪を犯す前・罪を犯した後に葛藤する描写があっても良かったのではないだろうか。だって、敬虔なクリスチャンがなんの躊躇もなく悪党どもを殺すのはありなのか!?もちろん娘が犯されて殺されたら、おそらくは自分だって同じような行動を取るだろう。だが、この映画の主題は「キリスト教的価値観」である。

キリスト教なんて全く関係のない東野圭吾の『さまよう刃』ですら、主人公が娘を犯した&殺した若者を「殺すか否か」が話の軸となる。(結局2人組の内の1人は殺せずに、自分が警官に撃たれて亡くなる。)

それなのに『処女の泉』では、羊飼いを殺すに至るまでのテーレ及び関係者(この場合は妻)の葛藤が一切描かれない。あるのは「殺した後の償い」だけである。それはずるいよなあ…。テーレの行動が、東京裁判などに通ずるヨーロッパ的価値観の悪い部分とダブって見えるのは自分だけだろうか。

さらに、テーレの罪はこれだけに留まらない。彼は、羊飼い3兄弟を皆殺しにしているが、末っ子まで勢い余って殺したのは大問題だ。上の兄弟2人はカリンを犯した悪党だが、少年はあくまで見張りをしていただけだ。それまでの様々な描写から見るに、少年はおそらく自ら「悪」を働いたことはない。生まれてからただ兄2人と一緒にいるだけで、カリンの亡骸の上に土までかけている。彼は兄2人とは全くの別物である。また、そもそもこの末っ子のように幼い「子供」は、罪から最も遠い存在である。なんなら彼は、この物語の中で(カリンと比べても)最も罪から遠い。

テーレは2人を殺しただけでも大きな罪を犯したが、さらにこの「罪のない末っ子」まで殺してしまうのはただの過剰殺人である。庶民の道徳観として「自分の娘にあんなことされたら、そりゃ殺すよなあ」と思うのはまだ道理にかなっている。(それでも宗教的にはアウトなんだけど。)しかし、この末っ子に関してはそれすら当てはまらない。

さて、このように大きな罪を犯したテーレだが、それに対する自覚が本当にあるのだろうか。先述したように、彼は物語のラストに「自らの罪に対する償い」として教会を建てることを誓っている。だが彼は、自らの犯した罪を「本当の意味で」理解しているのかは甚だ疑問である。それには、本人が思う以上に長い時間がかかるのかもしれない。

 

 

また、「羊飼い2人を殺す」「その末っ子を殺す」という罪に隠れてしまっているが、この事件をそもそも引き起こしたのはカリンへの溺愛とそれに相反するインゲリの扱いである。別に夫婦はインゲリをいじめていたわけではないし、むしろ「よく養ってくれている」と言われている。また、中世においてあれくらいの格差は普通だ。

ただし夫妻の行動が、インゲリのカリンに対する恨みつらみを育む大きな要因となっていたことは確かである。これは、決して見逃すことは出来ない「罪」の出発点である。

これは、次に述べるカリンの罪と同様である。

 

では最後に、この映画の核であるカリン。彼女が汚された&殺された事件がこの映画の軸となっているのだが、果たして彼女はただの「装置」なのか?決してそうではない。彼女も一人の人間であり、知らない間に罪を犯していた。

それはインゲリに対する態度、ひいてはこの世界に対する無知である。(序盤のいくつかのシーンで、カリンは結構うざめのお姫様キャラとして描かれていることからもわかる。)

もちろん、それに対する罰があのような恥辱というのは、流石に割に合わない。ただここで言いたいのは「罪と罰の重さは必ずしも釣り合わない(というか釣り合わない場合がほとんどである)」ということだ。

例えば『バベル』では、モロッコ(だっけ?)の少年が何気なく撃った銃弾が観光客のアメリカ人に当り…という感じで悲劇が連鎖していく。この世界は悲劇と喜劇の連続で成り立っている。カリンが凌辱を受けるに値する罪を犯したわけではないが、彼女にしろ「罪なき被害者」ではないのだ。

 

グローバル資本主義下の世界において、カリンに対するインゲリの恨みという構図は非常に示唆的である。例えば富裕層の家庭に生まれた子供は、生きるだけで罪を犯している。彼らは何不自由なく日々を過ごす。もちろん悩み事もあるが、それは例えば恋愛沙汰や将来の夢などがほとんどだ。家族からも愛を受けて、彼らは本当に「良い子」に育つだろう。彼らは決して悪人ではなく、むしろ人間的には真逆に位置している。だが、彼らは自分たちの知らない間に罪を犯している。彼らはカリンと同じである。小さい頃は無知でも良いが、成長したら少なくともそれに対してより自覚的になるべきである。

 

結局この世界には、罪を犯していない人もいなければ、罰を受けない人もいない。また、罪を犯すだけの人もいなければ、罰を受けるだけの人もいない。ただし、犯した罪とそれに対する罰が釣り合うかは別の話であるが。

 

最後に、ここまで読めばわかると思うが「彼ら」とは「私たち」のことである。その「罪」に対して自覚的になること、そして少しでも「償い」をしていくことが私たちに求められているのだと思う。あまりにも大きな「罰」がやってこないことを願いながら。

 

 

ーーーーーーーーーーーここからは(もっと)余談ーーーーーーーーーーー

身も蓋もない話だが、この「罪と罰」という鋳型を用いて何が言いたかったのだろう。自分でもわからなくなってきたが、「絶対的なものなど何一つないよね」ってことかな。

村上春樹が『アンダーグラウンド』のまえがきで、「メディアが作りだす『オウム=絶対悪』『被害者=絶対善』というイメージの先に踏み込む必要がある」と述べている。今この文章を書いている時の感覚は、それと似ている。(もちろんオウムの極悪非道は最低だが、ここでしたいのはそういう話ではない。)

オウム事件だって3.11だって、そこで亡くなった人は「聖人」ではない。普通に人を恨んで、憎んでいたりもしただろう。もちろんそれだけではなく、人を愛してもいただろう。こういうドロドロしたもの全てをひっくるめた「私たち」が亡くなったのである。

ブラックラグーンの中で(多分チャンが)言っていたけれど、人を生かす殺すって善悪の彼岸にあるんだと思うよ。