国立近代美術館:No Museum, No Life?
「美術館(あるいは美術展)の美術展」という、メタ的なテーマ。作品はもとより、解説の文章がとっても面白かった。美術を見る眼がない自分にとっても、大切なことばかり書かれていた。
美術館の役割を表すなら、以下の様になる。
「記録の集積により秩序を持った体系を作り、それを管理、維持する。」
これは近代の情報産業の根本的な考え方である。そして美術館は、人々に作品を体系的(ななんらかのコンセプトに沿って)に伝える。
ただ、そこから「こぼれ落ちるもの」がある。(当然そのことは、美術館側も自覚している。)美術という、システムや権威とは反対に位置する物事を扱うことが多い分野であれば、それは尚更である。(個人的には「近代からこぼれ落ちるものを、消えてしまう前に集めたい」と言って『遠野物語』を記した柳田国男が想起される)
さて、ここで大事なのは「こぼれ落ちる」ことへの自覚である。システムだけでは埋められないものがあること、むしろその外側にあるものから新しい価値が生まれること。そして、その外側すらも内側=美術館などのシステムが絶え間なく呑み込んでいくこと。これは美術という分野だけでなく、あらゆる「近代」が抱える問題だ。
だからと言って、「近代」を否定するのも間違いだと思う。それは「権力構造なんて不要」と考えるアナーキスト的な発想でしかない。好むと好まざると、こうした秩序は大衆の意志から必然的に生まれてくるだろう。
だからこそ、システムを利用しながら、その外側で起こる動きにも注意する必要がある。そこにこそ内側への真の批判性があるからだ。内側が外側を吸収してその様態を変化させ、また新たな外側が生まれる。このダイナミクスが機能する場合においてのみ、ある世界はうまくいくのだろう。
「こぼれ落ちるもの」を見つめるまなざしと、内側から手を差し伸べる勇気と自己批判。美術館というシステムを動かす立場にありながら、外側への自覚を忘れない人たちが素晴らしいと感じた。
☆追記☆
以下、面白いと感じた作品のメモ
・ミレーの落ち穂拾いとタイの農民(アラヤー・ラートチャムルーンスック)
・川―両サイドに仮設住宅跡地、中央奥に震災復興住宅をのぞむ(米田知子)
・ウォータールー橋(ミレー)
・大辻清司、村上三郎
・「温度」の項目⇒作品の劣化や修復もまた芸術が変化する過程であるのでは?作品とは普通「ある一時点で完成されたもの」だが、時間と共に変化することすら作品の一部として捉えることも可能ではないだろうか。例えば、作品が作られてから、劣化して壊れていくまでの過程を映像記録に残してみるとか。この発想は「ゆく川は絶えずして~」という日本人的発想だからチャレンジできる試みだと思うのだが。