二流社会人のメモ帳

興味のあることを徒然なるままに独りごちる。

学問の政治と一庶民の政治

国際政治経済学の授業で見た『フェイル・セイフ』(未知への飛行)という映画がある。監督は『12人の怒れる男』などで有名なシドニー・ルメット

冷戦期の核戦争へのシナリオがどう想定され、その際の恐怖がどう表象されているのかを知るために流された映画だったのだが(『博士の異常な愛情』と同じようなもの)、個人的に興味深かったのは映画内でのアメリカ大統領の「ある重大な決断」である。

彼は「もしモスクワへ向かう核爆弾を止められなかったら、その時はニューヨークにも核爆弾を落とす」と言った。そしてラストシーン、彼は自らの指示で、ニューヨークを灰燼に帰すこととなる。自分たちの不手際が引き起こした自体への謝罪と誠意として。

ここには何の論理的整合性もない。そこにあるのは「筋を通す」という考え方である。(テンプレ的な文化論からすれば)日本人が好きそうでアメリカ人が嫌いそうな発想だが、これをアメリカ大統領がやる所に関心を惹かれた。

いくら学術的用語や概念を用いたり、理論を精緻化したりしたところで、政治とはどこまでいっても人間の泥臭い営みである。だから結局は「筋を通す」みたいな感覚が問われるのだと思う。

と、(一応は)政治学を中心に勉強してきた(させられてきた)意識低い系の留年生は思うのであります。やはり学問として政治をやると、大雑把に物事の要点をおさえることができなくなってくる。安保問題にしたって、僕の庶民的感覚が叫んでいるのは「誰が賛成だ反対だの叫んだところで、国の中枢はアメリカに尻尾振って「やります」って言っちゃってるンゴ・・・」という諦めに似た思いである。だから政治を学問として続ける人はすごいし、自分の中の庶民感覚みたいなものを維持するのは大変だと思う。から尊敬するし、勝手に心配もしている。

(安保法制に関してはいつかまとめて書かなければいけないと思うのだが、それなりにちゃんと書きたいからまた今度。)

 

さらに話はそれるが、第二次大戦後の日本は「筋を通す」という観点から昭和天皇を退位させるべきだったのではないだろうか。(形式上は天皇みずからの判断ということでも良いかもしれんが。)天皇は利用されていただけ」という声があるにせよ、象徴としてトップにいる彼の判断は重いわけで。結局日本の戦後は、天皇が筋を通さなかったために今もこうして筋を通さないのが当たり前という姿勢にずるずるとおちいったのだと思う。もし天皇の戦争責任をより厳しく追及していたら、どのような形にせよ「なあなあ」ではなく「筋を通す」ことを重んじていれば、日本が「無責任国家」となることはなかったような。これも安保の話に繋がるんだけどね。