二流社会人のメモ帳

興味のあることを徒然なるままに独りごちる。

歴史は終わらない、けれど・・・

フランシス・フクヤマの『The End of History?』を読んでいる。

 What we may be witnessing in not just the end of the Cold War, or the passing of a particular period of post-war history, but the end of history as such: that is, the end point of mankind's ideological evolution and the universalization of Western liberal democracy as the final form of human government.

 

 For human history and the conflict that characterized it was based on
the existence of "contradictions": primitive man's quest for mutual recognition, the dialectic of the master and slave, the transformation and mastery of nature, the struggle for the universal recognition of rights, and the dichotomy between proletarian and capitalist. But in the universal homogenous state, all prior contradictions are resolved and all human needs are satisfied.

 

 The end of history will be a very sad time. The struggle for recognition, the
willingness to risk one's life for a purely abstract goal, the worldwide ideological struggle that called forth daring, courage, imagination, and idealism, will be replaced by economic calculation, the endless solving of technical problems, environmental concerns, and the satisfaction of sophisticated consumer demands. In the post historical period there will be neither art nor philosophy, just the perpetual care taking of he museum of human history.

 

彼にとっての「世界」はなんと狭いのだろう。ただ、おそらくフクヤマの様に単純な論を考える人は大勢いた。重要な点は①フクヤマの様な知識人がこうした考えを抱いたこと②この論文が大きな社会的反響を呼んだこと、である。

今から振り返って、何と愚かな考えだと切って捨てることは簡単である。だが、逆に言えば当時の「空気」はこの論文を生み出す程の高まりだったのだろう。確かにベルリンの壁崩壊からソ連の終焉に至る流れをリアルタイムで見れば、一つの時代に区切りが着いたと感じるのは自然なことだと思う。(=歴史の終わり、とはならないが)

なので、当時の雰囲気や言論状況を、その時代を生きていなかった自分たちの世代が感じるという意味では、この論文は貴重な資料なのである。フクヤマの「言い過ぎ」からそうした背景を感じる。

 

―余談

仮に普遍主義と文化相対主義を二項対立としてとらえるなら、個人的には文化相対主義の側に寄っている。だからフクヤマハンチントンの議論はイマイチ肌に合わなく、サイードの方が面白いと感じる。(ただし、ハンチントンの議論はフレームワークの提示という点では価値があると思う。)

普遍主義=西欧的価値観でなければ、つまりもっと以前の、愛や平和や自由といった漠然としたものならアリなんだけどなあ。結局そうした「普遍」は各人が抽象的にイメージせざるを得ないし、文化的背景により大きく異なる。別に普遍主義の否定=自由や平和の否定ではなく、それらの概念をどう定義するかは文化により異なるよねっていう話なわけで。

よく相対主義ニヒリズムに陥ると言われるが、個人的には虚構に寄りかかって後で失望するよりかは(例えば民族という名の宗教)、ニヒリズムと闘いながら生きる方がマシだと思うんだよなあ。というか、ニヒリズムに陥るのは「人や社会には何かしらの意味がある」ことを前提にしているからでは?そもそも意味などなくて、後付けしてくものだろうに。