メモ帳

千葉の田舎で生まれ、東京の出版社で働いている20代。ノンフィクションを中心に、読んだ本や観た映画についてのメモ代わりに書いています。

ブラッククランズマンの感想

ブラッククランズマン 感想

 


スパイクリーって感じの映画。ラストのノンフィクションへの反転のさせかたとか。

 


アダムドライバーやはり好き。心理が読めない間抜けキャラやってる方が好きだけど。

 


kkkを馬鹿にするのは面白いけど、彼らをコケにしても問題は解決しないのでは。私たちには響いても、彼らのプライドを傷つけるだけでむしろ過激に走られてしまい、インクルージョンはできないのでは(ネトウヨもそう)

もちろんそれを見て、過激になる手前だった人たちは「こいつらダセーな」と冷めることも期待できるが、そうでなく「攻撃されてる!あいつらは酷い!」となる人もいるのでは?

(だからといってコケにしたくなるのは自分も同感だから難しい。この映画の価値は充分にあると思うし)

 


リベラルとは基本的に人間の理性をより重んじる姿勢を指すと個人的には捉えているが、そうであるならざ彼らに理性が欠けている(彼らなりにある意味での理性はあるのだと思うが)ことを嘲笑うよりも、いかに彼らに理性を身につけさせるないしは取り戻させるかを考えるべきなのでは。

 


それとも、どこかの段階でそれは諦めてユーモアでコケにする方が良いのか?20代なまだしも40代を過ぎたいい大人はもう救いようはないのか?

そもそも、それを見て快哉を叫ぶのはそもそも堕ちていかないでこちら側にいる人では?包摂されない人をどう共同体に拾うかという、現代社会の最も大きな問題だが、、、

 


本当の本気で彼(女)らを救いたい!と思う時、どうするのが最善手なのか。論理も煽りも厳しいと思う。津田さんが研究結果出してたけど、ナラティブな語りが必要だし、よりこうかてきなのはひたすら言い分を聞くことと、その人の側にいることでは。その点で宮台先生の話は面白いが、それで救えるのは宮台ゼミの学生だけ。本来はコストがデカすぎるから社会全体で負担しなければならない(それこそ介護問題などと近い構造)。

まあぶっちゃけ、そういう人を相手にするのは面倒なわけで、誰がその役目を担うのかと。学生がネトウヨに走る分には先生が教育という観点でアプローチできるが、いい歳した大人は誰も口出しできんからなあ、、、こうして冒頭の話に戻る。

 


ホワイトパワーとブラックパワーの叫びを対比させるところは良かった、気もするが、どうだろうか?

もしwomenとmenで(男側にそういう団体があるとして(探せばあるだろうけど))同じことが起きたら、女性側は対立構造に落とし込むな、次元が違う!と言いそうだけど(そしてそれは理があるとも思うが)

ブラックパワーってどういう次元の概念で叫んでいたのか、思想的な歴史を知らないからあのシーンが良いか悪いか判断しかねる

 


結局、誰が(どの組織が)ある集団においてキモくて感じの悪い人を救うかってことなんだよな。

 


見えすぎる、繋がりすぎる世界は恐ろしいな。やはり知らぬが仏だ。モテの問題でみたてらさんも書いてたが。

とはいえそれが加速する(やがてはレーティング(それも相対評価))時代をどう生きるかという課題。個人レベルでの最適解は分断を加速させるから、社会レベルでの最適解ではない(はず)。

分断しても構わない社会を構築するか、分断をある範囲に、無理のない程度に押し込める社会を構築するか。大雑把に言えば前者はすばらしい新世界へ行きつく?一応後者を望みたいところだが、それはなぜだろうか?インセンティブの問題か倫理的な問題か、、、

そもそも、なぜ私たちは(繋がりたいと思わない人とも)繋がらなければならないのか?これを言い出されたら論理的には答えづらいな。このロジックで積極的に共同体から逃れる人間へどう対応すれば良いのか。。