【美術展見聞録】雑貨展
「動きのカガク」のキュレーター(?)が菱川勢一だったのに続き、今回の「雑貨展」は深澤直人。
プロダクトデザインってやはり面白い。ベルリンでバウハウスミュージアムを訪れた際にも感じたことだが、「ほらほらこれが美術作品ですよ~!」ってならないのが良い。生活にひそむ美しさというか、お高くとまらない。日常に、大衆に寄り添っている。
デザインサイトは「デザイン」をキュレーションするのが本当に上手だ。見せ方もわかりやすくて、あの独特な展示スペースの形状を上手く使っている。メリハリがついている。サブカル系にはたまらんのだろうな。
※余談(アイデア)
「動きのカガク」は、新体操のリボンみたいなやつを遠隔操作できる作品が面白かった。あれを応用して、「IoT猫じゃらし」を作りたい。スマホのセンサーを通じて、実家に設置された猫じゃらしが動く、みたいな。これがあれば独り暮らしの人や出勤中でも、猫と触れ合うことができる。ついでにモニター機能が付くことで、「ペット大丈夫かなあ?」という不安も和らぐ。
【美術展見聞録】キセイノセイキ
ディズニーランドかってくらいの長蛇の列をなすピクサー展を横目に向かう。案の定、人は少ない。
非常に興味深かったのは、報道カメラマンの横田徹さんが撮影した映像が展示されていた点。美術展が「美術」の枠を拡張しつつあることがわかる。(今回のテーマは「表現の自由」にフォーカスしているのでこうした作品も含まれてくるのは当然とも言えるが)
女子高生(かわいい)がスミノフを飲んでいる写真や、空想(で終わってしまった)戦争を振り返る展示などなど、「何が、なぜ、誰によって、規制されるのか」を考えるのは面白かった。
個人的に「JAPAN ERECTION」という作品+映像に惹かれた。シンプルだけど作品のエネルギーがストレートに伝わってくる。
↓(局部が露出されているので閲覧注意)
https://www.youtube.com/watch?v=7G46YMyQjBY
東京都美術館は会田誠が物議を醸した(醸された)「檄」を展示した「ここはだれの場所?」展など、キワドイ線を攻める姿勢が良い。(ピクサー展の様なキャッチーなものも含めて、トータルで展示スケジュールのバランスがとれている)
【美術展見聞録】谷崎潤一郎文学の着物を見る+『細雪』の感想
会場内は思ったよりもにぎわっていて、着物をみにつけた奥様方が多かったのが印象的だった。ここを訪れた後に『細雪』を読んだので、作品への満足度は上がった。
ついでに竹久夢二の方も見れて満足。内藤ルネや水森亜土など20世紀の日本を代表するイラストレーターの流れを知ることが出来て良かった。あまり詳しくない分野だけになおさら。
※『細雪』の簡単な感想
文章が丁寧で美しい。中で出てくる手紙や歌の読みやすさたるや。優美で清らかで、無駄がない。美しいものを追い求めたら必然的に機能的になったのだろう。(機能⇒美という順番の場合が多いが、個人的に谷崎は逆の道をたどったのだと思う。)
中身に対して突っ込むと、雪子のような人間は僕には無理だ。ああした美しさは俺には耐えられない。妙子のような妖婦型の方がよほどマシである。
物語の最後における(妙子が流産するのはまあ当然の流れだが)雪子の下痢は彼女の人生の「しょうもなさ」を表した、ある種の谷崎の皮肉ではないかと考える。きっと違うけれど、僕は勝手にそう思い込んでいる。
【美術展見聞録】MIYAKE ISSEY展: 三宅一生の仕事
「明日来ていく服を提案する」というウチのスタイルとはベクトルが異なるが、面白かった。
シリコンを流し込んでかたどった服や、サーキュラーという丸い一枚の布からかたどった服などを見て、自分が今まで想像していたよりも、服ってもっと自由なんだなと感じた。たしかに、服って最も身近なプロダクトデザインだなあと。そうした観点から衣服を捉えていくのは面白い。
余談だが、人事が『子供はわかってあげない』を好きだそうで嬉しい。やっぱり、自分の好きなものを好きな人は好きだよね。思い込みでもいいから「感性が合う」ことはとても気持ちの良い瞬間。
映画の感想:『レヴェナント』
表現したかったものは『野火』と少し似ていて、映像世界が対比できるような作品だなあと感じた。かたやフィリピンの熱帯地獄、かたや西部開拓時代の極寒世界。どちらにも共通するのが、圧倒的な自然とそこで血みどろの戦いを繰り広げる男たち。
やはり撮影監督のエマニュエル・ルベツキは天才。映像の質感というかなんというか(自分に映像を見るセンスがあるとは思えないが)、あまりに陳腐だが「美しさ」が図抜けている。それぞれにあった質感を出せるのは本当にすごい。
ストーリーはまあ普通。悪くはない。今回は奇想天外な物語を作るのではなく、あの極寒のサバイバルを表現したい!というのが出発点にあったのだろう。
とにかく映像のすさまじさたるや。特にディカプリオが馬の死体からはらわたを引きずりだし、その中で眠るシーンは圧巻。
映画の感想:太陽を盗んだ男
1979年の日本でこんな映画が公開されていたのか…!という衝撃。今日の映画やアニメで表現されている大抵のポリティカルフィクションより、圧倒的で馬鹿馬鹿しくてスタイリッシュで面白い。電電公社の逆探知やストーンズ公演の芝居は、『ダークナイト』における都市の盗聴と同じ問題(テロを封じるには市民の自由を侵害せざるを得ない点)を描いていると言える。
ただ、終わりにかけて少しメロドラマっぽくなるのが残念。ゼロが死ぬくだりも、そんなサラッと死ぬの?みたいな。ストーリーのために強引に殺してない?
特に最終盤での二人の会話(「あなたは犬だ!」「何が悪い!」のくだり)は蛇足だと感じた。そんなキザったらしいことを言わないのがジュリー演じる城戸の、他のテロリストと全く異なる良い所だったのに。あと菅原文太は流石に不死身すぎ(笑)何発撃たれてるんだよ(笑)というか撃つ方も心臓か頭を狙えよな。
とはいえ全体的に見ればとても面白い作品で、特に城戸のキャラクターは当時として画期的だったのではと思う。(「原爆作ったけど何したいかわかんねーわ」みたいなところ) これを現代風にリメイクしたら「原爆作ったから安価で声明出す」ってスレを立てるのだろう。
だからこそ、もっと城戸の愉快犯、とすら言えない冷めた心情を象徴するシーンがあればよかったのかな。例えばビルの屋上から5億円をばら撒くシーンも、城戸が追いつめられる前にあれば、彼の犯罪の性格を的確に表現できていたような。
そう感じるのはポリティカルフィクションが蔓延した30年後の現在だからなのかもしれないか。
余談だが、河瀬直美監督との対談での発言が色々と面白かったのでメモ。
●河瀬
原爆の作り方とか、かなり調べてありますよね。スタッフの方が調べたんですか。
■長谷川
そこは大事な部分だからな。そこがいい加減になってしまうと、映画全体がだめになってしまう。原爆については、スタッフに調べさせた。
スタッフは体育会だから。相米(慎二)でも、俺の目の前では「はい」と言う。
でも、相米が撮って来れなかった絵もあった。沢田研二の住むアパートの屋上でアリを撮ったが、アリがいい芝居をしない。何百フィートも回して使える一秒がなかった。
猫がプルトニウムを食べるシーンの芝居は大変だった。最終的にはマタタビを使った。猫屋は、「(殺しても代わりは)何匹もいますから」と言うが、殺すのは嫌だった。相米が何百フィートも回して撮った。スローモーションだから、ハイスピード撮影。
カーアクションのこと。皇居も首都高も撮影許可申請したが、当然下りなかった。でも、それで止めたら映画は成立しない。
皇居のシーンは、7台のキャメラで追った。使ったバスがオンボロでスピードが出なかった。皇宮警察の警官には、「団体さんの駐車場はあっちですよー」なんて言われてしまって。仕方がないからコマ抜きをして、バスがスピードを出しているように見せた。撮影の時、俺が現場にいなかった。もしいたら、もう一回やらせただろう。そしたら、パクられるやつも出ただろうが。
●河瀬
色んな綱渡り。その原動力はなんですか?
■長谷川
許可が出ないことを違法でやるのは楽しいじゃないか。ガキが柿食うのとか。その映画現場バージョンだな。本質的に悪いと思ってない。本当に悪いことというのは、死んだ猫を撮るために猫を殺すことだ。
首都高でのシーンは、のろのろ走るクルマで流れを止めて、その前何キロかを空けて撮った。製作担当は、延べ2、30名パクられている。
●河瀬
その勇気というのは。
■長谷川
勇気じゃないよ。柿食うのは勇気じゃないだろ。やんちゃというか。
映画作るやつがそういうもの。
さらに余談。色々ググって見つけた記事から引用。自分もこれには同意。全編に渡って音楽の使い方は工夫されていたと思う。
僕が「この映画の中で一番好きな音楽の場面は?」と聞かれたら、即答で首都高のカーチェイス・シーンと言うでしょう。その理由は普通なら躍動感や緊張感のある音楽が付けられる場所だと思うのに、ここでは全く逆でメロディのギターが静かに泣き、美しいストリングスが流れてくるからなんですね。 理由のない怒りや不満、どこへも向けられない苛立ち、行くあてもなく暴走する主人公の心情をうまく表現しているなぁ、という感じでとても印象的です。監督の指示もあったかもしれませんが、こうゆう曲を持ってくるセンスは素晴らしいと思います。
さらにさらに余談。ポリティカルフィクションに関しては「自分ならどう作るか、どういう展開にするか」をつい考えてしまうのだが、城戸のテロリスト像はイメージする姿に割と近い。
なぜなら「コミュニケーション不可能」なテロリストが一番怖いと思うから。そもそも民主主義的な対話自体が成立しない相手。無条件に暴力だけ差し出してくる人間。力が強かったり邪悪な考えを持ってたりする人も嫌だが、それ以上に「何を」「何故」するのか理解できない人ほど嫌なものはない。そもそも反論の仕様がない。つまり、こちら側も有無を言わさぬ暴力でしか応答できない相手はキツイ。(イスラム国を念頭に置いていることは言うまでもない。)
ただ、ポリティカルフィクションにおいて「こんなテロあったらどうしようもなくね?」という問題を提出するだけではいけないと思う。それに対して社会の側がいかに応えることができるか、その可能性を含めて提出しないと、一人の市民として卑怯だと考える。
映画の感想:マグノリア
『ブギーナイツ』に続いてのPTA。オリジナル脚本でこれが作れるのはスゴイ。
興行的にはイマイチだったようだが、確かにこちら側が理解するために労力をかける必要のある作品ではあった。あと個人的に、彼はもっとポップで明るい中にも悲劇性のこもったような作風の方が向いているように感じる。要はブギーナイツ的な喜劇の方が得意なのではということ。
マグノリアは良作だし個人的にはこういう作品は好きだけれど、PTAの映画としてはブギーナイツの方が肌に合うものを作っているように感じた。あくまで向き不向きの問題だが。
後はやはり、音楽の使い方にこだわりが感じられる。多少やり過ぎな感もあったが。公開時のインタビューでの以下のコメントを拾って納得。
『ブギーナイツ』も曲が前面に出ているわけですけれども、僕は、この『マグノリア』も一種のミュージカルだと考えておりまして、大変大きな位置を占めていると考えております。
この映画の大きな特徴であるテーマに関して。カエルと旧約聖書の関係性は他の記事で書かれている通りだと思う。そう言えば、『海辺のカフカ』でも蛙が降ってくるシーンがあるけどあれもそういった神秘性に由来しているのだろうか。
「罪と赦し」という問題はもちろん、ラストの方で登場人物が吐き出す「愛があるのに、そのはけ口が見つからないんだ。」というセリフがこの作品を象徴しているのかな。
あと興味深いのは、コカインの話と娘への性的イタズラ(未遂?)に関しては、「赦し」が適用されていないこと。
これによって、ただ「赦すことが大事!」と伝えるのではなく、警察官の台詞の通り「何を赦して、何を裁くのか。それが難しい。」というメッセージになっている。確かに何でもかんでも簡単に赦すわけにはいかないから、個人的に映画内でそれらの罪が赦されなかった(あるいは赦されないことを恐れて言えなかった)ことは非常に重要だと思う。
そりゃあ赦すことは大事だし、もちろんいつかは赦すのかもしれない。だけど、その瞬間が映画内で訪れる必要はない。もし作中で赦されてしまうと「そんなにアッサリ赦しちゃうのはなぁ、リアリティないなぁ」と感じてしまう。
赦しにはどうしたって時間が必要なものだし、赦される側ではなく赦す側の問題として、どうしても赦すことのできない人もいる。人によっては、赦せないけど前を向くしかない、っていう複雑さを背負って生きていく場合もあるわけで。
また、エンディングについては以下の様に述べている。
僕がいつも目標としているエンディングというのは、もっともハッピーで、もっとも悲しいということを念頭に置いて作ります。
確かに面白かったし、こういうメッセージ性のある作品はとても好きだ。だが、PTAはしっとり系の映画ではなく喜劇的な展開の方が向いているとも思った。ドストエフスキーじゃなくてゴーゴリ、太宰じゃなくて芥川ってことか??(『ゼアウィルビーブラッド』『インヒアレントヴァイス』『ブギーナイツ』とそうしたタイプの作品しか観ていないためバイアスがかかっているのかもれいないが、そう感じた。)