メモ帳

千葉の田舎で生まれ、東京の出版社で働いている20代。ノンフィクションを中心に、読んだ本や観た映画についてのメモ代わりに書いています。

政治と文学の必然的対立―『個人的な体験』

 

最近、村上春樹が「原発を核発電所と呼ぶべき」という発言をしたことが話題になっている。これに対して右翼が反発を起こして「村上春樹大江健三郎化」などと叫んでいる。(個人的には、この言葉のレトリックの話は村上春樹に賛成である。「危険ドラッグ」などと比べたら余程的確なネーミングだ)

 

そもそも、文学という<個人が世界とどう関わるか>を扱うものを生業としている人間が、いわゆる「左翼」と呼ばれることは必然的である。思想の正しさと政治の正しさは、常にどこかで対立するものだからだ。「壁と卵」で言えば、文学とは基本的に卵に立脚したものだし、それがこの世界で「左側」となっていることは良い悪いの話ではく、ただの事実だ。

 

で、「文学と政治」という話を考えていたら、ふとある小説が浮かんだ。

今日取り上げたいのは、大江健三郎の『個人的な体験』である。この小説は、難解で知られる大江文学の中で比較的読みやすい部類に入ると言われる。あらすじはめんどくさいから割愛。

ここでポイントにしたいのは一点、バードの子供への向き合い方だけである。(尤も、それがこの小説の主題なのだが。)

 

「赤ん坊の怪物から逃げ出すかわりに、正面から立ち向かう欺瞞なしの方法は、自分の手で直接に縊り殺すか、あるいはかれをひきうけて育ててゆくかの、ふたつしかない。始めからわかっていたことだが、ぼくはそれを認める勇気に欠けていたんだ」

 

物語のクライマックスでバードが口にするこの言葉。これこそがまさに「思想的正しさ」であり、「政治的正しさ」とぶつかり合うものである。

 

例えば原発。この「怪物」と向き合うことは、バードが赤ん坊と向き合うことと同じである。本質は「賛成か反対か」ではなく、欺瞞なしに正面から向き合うことである。だから僕は「この国が原発に賛成するなら、都心のど真ん中に作れ」と思う訳である。もちろんそれはあくまで、思想的な提案であることは間違いない。政治とは現実の絶え間ない効率的改善が目的なわけで、思想的正しさとはかみ合わない。こんな非現実的なことは、実際にやるべきではない。

しかし、しかし私たちは「現実問題」を盾にし過ぎていないか?

それは「非現実的」であるのは間違いない。ただ、私たちは自らの欺瞞を直視する必要があることも間違いない。

 

―余談

原発について。デリケートな話であることは間違いないし、単純に科学的知識に乏しい自分がこれに関して口を挟む「権利」はないと思う。ただ、意見を持つ「義務」はある。

まず、個人的な賛成反対はともかくとして、もし国民の過半数が原発賛成で原発が続くことになったとしたら、それは受け入れるしかない。少なくとも日本国籍を離脱せず、かつ日本という地域に在住する限り、私たち日本人は運命共同体である。丸山真男が「戦争で『私たち日本人』が本当に運命共同体であることを実感した」と述べているが、原発もそれに近い性質のものである。賛成派も反対派も、一度答えが出たらそれに従うしかないのだ。(もちろん決定への反対運動などはできるが、現実の生活として原発から逃れられるわけではない。)

個人的には原発がイエスかノーかで言えばノーなのだが、極端な反対派という訳ではない。もし国民投票原発が続いたとしたら、それに賛成ではなくても納得はできる。だって原発って効率的じゃん。もちろん、そんなことを言ってきたせいでフクイチみたいなことが起きて、現実問題として済む場所を追われた人々がいる。でも、もし専門家が原発のリスクと火力発電などの環境リスク等を天秤にかけた結果、前者の方が軽いと判明したら?代替案がない限り、原発を完全になくすことは難しい。大発明でエネルギー問題が解決されることにかけるのは馬鹿すぎる。

これはIfの話だけど、そうなったら原発続行は効率性の観点から充分にあり得る話だし、少なくともそのメリットは認める必要がある。個人的には反対。でも、「リスクを最小化して運用する」という考え方があることは理解できる。

それでも反対するのは、外交関係等を含めた総合的なリスクとリターンを考えればの話もあるし、何より人間は馬鹿で必ず間違いを起こす生き物だと思っているから。「歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。」ってやつ。

 

とりあえず、少なくとも福島第一原発が本当の意味で「収束」できない限り、日本という国が何を言っても欺瞞にしか聞こえない。

自分がこの問題を他人事で考えてしまう瞬間があるのは情けない。一番欺瞞があるのは自分自身なんだけどね。