二流社会人のメモ帳

興味のあることを徒然なるままに独りごちる。

映画の感想:太陽を盗んだ男

1979年の日本でこんな映画が公開されていたのか…!という衝撃。今日の映画やアニメで表現されている大抵のポリティカルフィクションより、圧倒的で馬鹿馬鹿しくてスタイリッシュで面白い。電電公社逆探知ストーンズ公演の芝居は、『ダークナイト』における都市の盗聴と同じ問題(テロを封じるには市民の自由を侵害せざるを得ない点)を描いていると言える。

 

ただ、終わりにかけて少しメロドラマっぽくなるのが残念。ゼロが死ぬくだりも、そんなサラッと死ぬの?みたいな。ストーリーのために強引に殺してない?

特に最終盤での二人の会話(「あなたは犬だ!」「何が悪い!」のくだり)は蛇足だと感じた。そんなキザったらしいことを言わないのがジュリー演じる城戸の、他のテロリストと全く異なる良い所だったのに。あと菅原文太は流石に不死身すぎ(笑)何発撃たれてるんだよ(笑)というか撃つ方も心臓か頭を狙えよな。

とはいえ全体的に見ればとても面白い作品で、特に城戸のキャラクターは当時として画期的だったのではと思う。(「原爆作ったけど何したいかわかんねーわ」みたいなところ) これを現代風にリメイクしたら「原爆作ったから安価で声明出す」ってスレを立てるのだろう。

だからこそ、もっと城戸の愉快犯、とすら言えない冷めた心情を象徴するシーンがあればよかったのかな。例えばビルの屋上から5億円をばら撒くシーンも、城戸が追いつめられる前にあれば、彼の犯罪の性格を的確に表現できていたような。

そう感じるのはポリティカルフィクションが蔓延した30年後の現在だからなのかもしれないか。

 

余談だが、河瀬直美監督との対談での発言が色々と面白かったのでメモ。

 

●河瀬
 原爆の作り方とか、かなり調べてありますよね。スタッフの方が調べたんですか。

■長谷川
 そこは大事な部分だからな。そこがいい加減になってしまうと、映画全体がだめになってしまう。原爆については、スタッフに調べさせた。

 スタッフは体育会だから。相米(慎二)でも、俺の目の前では「はい」と言う。
 でも、相米が撮って来れなかった絵もあった。沢田研二の住むアパートの屋上でアリを撮ったが、アリがいい芝居をしない。何百フィートも回して使える一秒がなかった。

 猫がプルトニウムを食べるシーンの芝居は大変だった。最終的にはマタタビを使った。猫屋は、「(殺しても代わりは)何匹もいますから」と言うが、殺すのは嫌だった。相米が何百フィートも回して撮った。スローモーションだから、ハイスピード撮影。

 カーアクションのこと。皇居も首都高も撮影許可申請したが、当然下りなかった。でも、それで止めたら映画は成立しない。
 皇居のシーンは、7台のキャメラで追った。使ったバスがオンボロでスピードが出なかった。皇宮警察の警官には、「団体さんの駐車場はあっちですよー」なんて言われてしまって。仕方がないからコマ抜きをして、バスがスピードを出しているように見せた。撮影の時、俺が現場にいなかった。もしいたら、もう一回やらせただろう。そしたら、パクられるやつも出ただろうが。

●河瀬
 色んな綱渡り。その原動力はなんですか?

■長谷川
 許可が出ないことを違法でやるのは楽しいじゃないか。ガキが柿食うのとか。その映画現場バージョンだな。本質的に悪いと思ってない。本当に悪いことというのは、死んだ猫を撮るために猫を殺すことだ。

 首都高でのシーンは、のろのろ走るクルマで流れを止めて、その前何キロかを空けて撮った。製作担当は、延べ2、30名パクられている。

●河瀬
 その勇気というのは。

■長谷川
 勇気じゃないよ。柿食うのは勇気じゃないだろ。やんちゃというか。
 映画作るやつがそういうもの。

http://www.twitlonger.com/show/gmn5j2

 

さらに余談。色々ググって見つけた記事から引用。自分もこれには同意。全編に渡って音楽の使い方は工夫されていたと思う。

僕が「この映画の中で一番好きな音楽の場面は?」と聞かれたら、即答で首都高のカーチェイス・シーンと言うでしょう。その理由は普通なら躍動感や緊張感のある音楽が付けられる場所だと思うのに、ここでは全く逆でメロディのギターが静かに泣き、美しいストリングスが流れてくるからなんですね。 理由のない怒りや不満、どこへも向けられない苛立ち、行くあてもなく暴走する主人公の心情をうまく表現しているなぁ、という感じでとても印象的です。監督の指示もあったかもしれませんが、こうゆう曲を持ってくるセンスは素晴らしいと思います。

http://rittor-music.jp/bass/column/ilovebass/723

 

 

さらにさらに余談。ポリティカルフィクションに関しては「自分ならどう作るか、どういう展開にするか」をつい考えてしまうのだが、城戸のテロリスト像はイメージする姿に割と近い。

なぜなら「コミュニケーション不可能」なテロリストが一番怖いと思うから。そもそも民主主義的な対話自体が成立しない相手。無条件に暴力だけ差し出してくる人間。力が強かったり邪悪な考えを持ってたりする人も嫌だが、それ以上に「何を」「何故」するのか理解できない人ほど嫌なものはない。そもそも反論の仕様がない。つまり、こちら側も有無を言わさぬ暴力でしか応答できない相手はキツイ。(イスラム国を念頭に置いていることは言うまでもない。)

ただ、ポリティカルフィクションにおいて「こんなテロあったらどうしようもなくね?」という問題を提出するだけではいけないと思う。それに対して社会の側がいかに応えることができるか、その可能性を含めて提出しないと、一人の市民として卑怯だと考える。