メモ帳

千葉の田舎で生まれ、東京の出版社で働いている20代。ノンフィクションを中心に、読んだ本や観た映画についてのメモ代わりに書いています。

映画の感想:グッドモーニングベトナム

松本人志が見たら気に入りそうな映画。ユーモア溢れるシーンでもシリアスなシーンでも、「喜劇」というコンセプトが貫かれている。ロビン・ウィリアムスのマシンガントークと、シリアスなシーンで見せる哀愁漂う顔が素敵。本当にハマリ役だと思う。特に、自爆テロ直後の放送シーンは凄味を感じさせた。

「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。」というチャップリンの名言が浮かんでくる。

前線の兵士ではなく、それを支える側の人から見た戦争という視点は異色だし、面白いと感じた。この前戦後70年特集のテレビ番組で「わらわし隊」という兵士慰問の集団がクローズアップされていたが、それにも通ずる。

 

演出面では、クロンナウア(DJ)がロックンロールをかけるシーンで、現地の光景(田植えするベトナムの村、ジープで走るアメリカ軍etc)のカットが続くのが印象的。そのままBGMにしちゃうパターンね。音楽含めて、60年代の雰囲気が出ていた。不謹慎かもしれないが、当時を知らない自分は「良い雰囲気だなあ」なんて思ってしまった。この映画が戦闘とは離れた場所で、かつ戦争前夜(あくまで「戦闘状態」ではなく「警戒状態」)を扱っているからだろうけれど。

映画の感想:ノー・マンズ・ランド

 

2001年のカンヌ国際映画祭において、圧倒的なストーリーテリングの巧みさで世界中のマスコミを興奮の渦に巻き込み、脚本賞を受賞した『ノー・マンズ・ランド

 1993年、ボスニアセルビアの中間地帯<ノー・マンズ・ランド>に取り残された、ボスニア軍兵士チキとセルビア軍兵士ニノ。お互い殺すか、殺されるかの緊迫した状況の中、交わされる二人の会話。戦争に巻き込まれ互いを憎みあいながらも、一体何故争っているのか分からずにいる二人の間に幾たびか心を通わせる瞬間が訪れるのだが...。彼らの一触即発の駆け引きを、ユーモラスかつスピーディーに描きながらも、戦争の愚かさが浮き彫りにされ、観る者の胸に突き刺さる傑作である。

解説<ノー・マンズ・ランド

 

今まで見た戦争映画の中でも特に秀逸な作品。草原や青空、小鳥のさえずりといった「何もない穏やかな日常」を思わせる光景と、それに相反する人間の対立と暴力。

兵士や国連が使う言語なども含めて、「お互いの不理解」というコミュニケーションの側面にも光を当てている。(この辺りは2006年に公開された『バベル』に通ずるところがある)

「わかりあえないこと」っていうのが、これほど恐ろしい結末を迎えるとは。興味深いのは、ボスニア兵のチキとセルビア兵のニノという2人が、「運命共同体」としてわかりあえそうな流れがあること。だが結局はわかりあえず、憎しみの連鎖に呑まれていく。ここの脚本が素晴らしいと思う。対立一辺倒ではなく、かといって友情の物語には決してなり得ない。追い詰められた中での2人の描き方がとても上手いと感じた。

 

また、ラストシーンも上手く描かれている。

『ノー・マンズ・ランド』が意図するのは、責任追及ではない。悪いことをしたのが誰なのかを指摘する映画じゃないんだ。僕が言いたいのは、あらゆる戦争に対して、異議を唱えるということだ。あらゆる暴力に対する僕の意志表示なんだよ。

ダニス・タノヴィッチ

解説<ノー・マンズ・ランド

 

最後に一人取り残されるツェラ。これは戦闘で殺されるよりも遥かにむごたらしいラストだろう。いっそ楽に死なせてあげればよいものの、それすらもできない。誰も責任を負うことが出来ないのだ。

「誰が悪いわけでもないし、誰も正義の味方ではない」という戦争の不条理さを、これでもかと訴えてくる名作。映像や音楽など、淡々と進む演出から人間のやるせなさが表現されている。

 

Final Fantasyで好きな曲ベスト10

順位を付けるなんておこがましいほど名曲ばかりだけど、個人的な思い出補正を加えてまとめてみる。でも考える度に、順位なんてコロコロ変わるんだよなー。

 

1位:Melodies of Life(FF9)

曲自体のクオリティもさることながら、FF9のストーリー、キャラクター、テーマとの親和性が素晴らしい。EDでこれが流れたら泣くに決まってるだろ…!ビビ…。ED補正がかなり入っている。でもBGMって単なる曲じゃなくて、シチュエーションとの繋がりも大事だと思うの。

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2位:妖星乱舞(FF6)

英語名は"Dancing Mad"。ケフカっぽさが出ている。ケフカはラスボスにしては珍しい三枚目だけど、この曲はカッコよすぎる。ただのボス戦テーマではなく、FF6全体を貫く世界観が表現されている。バトル前の問いかけも含めて、全体的に中二要素が全開である。そこがまた好きなのだけれど。OPと同じ旋律っていうのがまた良いよね。全部で18分もある大作なのだが、ケフカのあまりの弱さ(正確にはインフレした主人公側の強さ)のせいで、全部聴く前に瞬殺されてしまう。

 

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3位:ティナのテーマ(FF6)

哀愁漂う曲調がたまらん。「幻獣と人間の間に生まれたティナの彷徨」って感じがよく出ている。オーケストラ版が特に良い。

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4位:光を求めて(FF5)

聞いただけで一瞬でわかる「ラストフロア感」がやばい。緊張感が極限まで高まる一曲。FF5はシステムが評価される一方で世界観やBGMはあまり注目されていない気がするものの(ビッグブリッジは別として)、普通にその辺のクオリティもめちゃくちゃ高い。個人的には、FFシリーズの中で最もバランスが取れた作品だと思う。プレイしていて一番楽しかった。(世界観だけなら6の方が好きだけど)

 

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5位:ゴルベーザ四天王(FF4)

入り方がカッコいい!強敵が襲来してきた感。特にエッジ覚醒後のルビカンテ戦が思い出深い。(ルビカンテ以外はこのBGMに見合う強さではなかったからかもしれない)

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6位:エアリスのテーマ(FF7)

この曲はなんといっても、忘らるる都でのジェノヴァ戦。FF7って個人的な愛着は他作品と比べて薄いのだけれど、このテーマは7っぽくなくて好き。(7はどうしてもサイバーパンクって感覚を抱くから、エアリスのテーマとかは若干浮いている気がする。「っぽさ」で言えば、『更に闘う者達』だな。)

 

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7位:Rose of May(FF9)

ベアトリクスがカッコいい。アレンジの『守るべきもの』と悩むが、個人的にはピアノのメロディの方が好きだからこっちを選んだ。

余談だが、タイトルの元ネタがシェイクスピアっていうのも、FF9の世界観とよく合っている。

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8位:決戦(FF6)

世間的評判でも、また個人的感覚としてもFF6は最も名曲が多いシリーズだと思う。中でもボス戦のBGM『決戦』は、「これぞボス戦!」って感じで高まる。もっと上の順位でも良かったけれど、6ばっかり入れるのもなあと思い。

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9位:片翼の天使(FF7)

何かヤバいやつが来るぞ…!!っていうザワザワ感。ボスのBGMはこうでなくちゃ。聖的、神的なメロディなのが、セフィロスの立ち位置をよく表している。

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10位:素敵だね(FF10)

曲単体で見れば『ザナルカンドにて』の方が好きだけど、この曲はかかるシチュエーションが卑怯。ユウナの良さが凝縮されている。(10-2では「夏休み明けたらあの娘がビッチになってた・・・」的な絶望を男子諸君にくらわせたけどね。ただ、開幕の『Real Emotion』は予想を裏切る演出という意味では、あれはあれで結構好き。)

 

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以下、入れてないけど入れようと思った曲のメモ

3:悠久の風、クリスタルタワー、最後の死闘
4:ゴルベーザ四天王
5:暁の戦士、古代図書館(シオンタウン的な)、ビッグブリッジの死闘
6:セリスのテーマ、仲間を求めて
7:更に闘う者達、星降る峡谷
8:The Man with the Machine Gun、Fisherman's Horizon、Julia

9:独りじゃない、いつか帰るところ
10:ザナルカンドにて、いつか終わる夢、blitz off、Otherworld
12:メインテーマ、王都ラバナスタ

 

東京都現代美術館:ここは誰の場所?

ここは誰の場所?の「ここ」に何の言葉を入れさせるか。それがこの展示会の持つ意味だと思う。

この前話題になっていた会田誠の『檄』『国際会議で演説をする日本の総理大臣と名乗る男のビデオ』もあったけれど、後者の方がよりクリティカルだった。

ただ、他にもっと攻撃的な作品はいっぱいあったから、もしこの2作品を撤去するなら全部の作品がアウトな気もするが。「文科省」のような固有名詞はアウトで、具体名を出さなければセーフなのか。ますます、撤去問題が思想ではなく「面子」によるものだったことが見て取れる。妻である岡田裕子の作ったビデオ(子供をクッキーの様に型にはめるやつなどの、教育を皮肉るシリーズ)の方がよほど過激だけで個人的には大好きだけどなw

「地球」「国」「社会」「町」「地域」「家族」など、おそらく「ここ」には共同体を表現するワードが入ることが多いだろうが、公共性を批判するのが「私」による芸術の役割なのはいつの時代も変わらない気がする。

あとは「子供しか入れない美術館」、面白いアイデアだった。入りたかった!

国立近代美術館:誰がためにたたかう?

この題名は『サイボーグ009』から取られたらしい。他の各コーナーのサブタイトルも秀逸なものが多かった。元々は「No Museum~」の方を見に行ったついでだったのだけれど、これ単体でもお金を払って見に行くべきレベル。

以下、気になった作品のメモ。

『飼われたる猿と兎』(竹内栖鳳)⇒「天上のパン」と「地上のパン」って言葉を想起させる。どっちが幸せなんだろうね。まあ何事もバランスだけど。

『動物宴』(藤田嗣治)⇒オーウェルの『動物農場』を彷彿とさせる作品。動物をメタファーに使うのはいつの時代にも常套手段なのね。

『犠牲者』(津田清楓)⇒小林多喜二≒キリストって思わせることを狙っている。確かに彼が持つ象徴性は、プロレタリアートにとってのキリスト的である。

『神兵パレンバンに降下す』(鶴田吾郎)⇒たくさんの白いパラシュートが戦争のおどろおどろしさとは真逆で、違和感を覚える。なんというか「さわやか」だから変。マグリットにこんな絵があったような。

『コタバル』(中村研一)、『香港ニコルソン付近の激戦』(宮本三郎)⇒戦争の勇敢さが表現されている。ここでもまだ、批判的な目はむけられていない。

アッツ島玉砕』(藤田嗣治)⇒ようやく戦争の負の側面が、シニカルに表現されてきている。物言わぬ死人の山は、観る人によって反応が異なるはず。

『餓鬼』(古沢岩美)⇒戦争に対して最も批判的な作品だろう。なかなか衝撃的だった。

 

ここからは第二次大戦後。

『なにものかへのレクイエム』(森村泰昌)⇒会田誠の『国際会議で演説をする日本の総理大臣と名乗る男のビデオ』を彷彿とさせる作品。「パロディ(≒ユーモア、皮肉)が持つ批評性」は一度真剣に研究してみたい。

 

『REAL TIMES』(chim↑pom)⇒お騒がせ集団である彼らの作品の中でも、かなり気に入った。ただ、そこにどれだけの批評精神を持っているのか(彼らによる作品の解説を見る限り、この作品に関してはかなりありそうだが)、そして、それは言語化(=説明)可能かが気になった。個人的には好きだし賛成派だが、反対派を説得し、惹きつけるだけの言語的説明も必要だと思う。ネットで過激な情報が拡散されてしまう今の時代なら尚更。

 

国立近代美術館:No Museum, No Life?

「美術館(あるいは美術展)の美術展」という、メタ的なテーマ。作品はもとより、解説の文章がとっても面白かった。美術を見る眼がない自分にとっても、大切なことばかり書かれていた。

美術館の役割を表すなら、以下の様になる。

「記録の集積により秩序を持った体系を作り、それを管理、維持する。」

 

これは近代の情報産業の根本的な考え方である。そして美術館は、人々に作品を体系的(ななんらかのコンセプトに沿って)に伝える。

ただ、そこから「こぼれ落ちるもの」がある。(当然そのことは、美術館側も自覚している。)美術という、システムや権威とは反対に位置する物事を扱うことが多い分野であれば、それは尚更である。(個人的には「近代からこぼれ落ちるものを、消えてしまう前に集めたい」と言って『遠野物語』を記した柳田国男が想起される)

さて、ここで大事なのは「こぼれ落ちる」ことへの自覚である。システムだけでは埋められないものがあること、むしろその外側にあるものから新しい価値が生まれること。そして、その外側すらも内側=美術館などのシステムが絶え間なく呑み込んでいくこと。これは美術という分野だけでなく、あらゆる「近代」が抱える問題だ。

だからと言って、「近代」を否定するのも間違いだと思う。それは「権力構造なんて不要」と考えるアナーキスト的な発想でしかない。好むと好まざると、こうした秩序は大衆の意志から必然的に生まれてくるだろう。

だからこそ、システムを利用しながら、その外側で起こる動きにも注意する必要がある。そこにこそ内側への真の批判性があるからだ。内側が外側を吸収してその様態を変化させ、また新たな外側が生まれる。このダイナミクスが機能する場合においてのみ、ある世界はうまくいくのだろう。

 

「こぼれ落ちるもの」を見つめるまなざしと、内側から手を差し伸べる勇気と自己批判。美術館というシステムを動かす立場にありながら、外側への自覚を忘れない人たちが素晴らしいと感じた。

 

☆追記☆

以下、面白いと感じた作品のメモ

・ミレーの落ち穂拾いとタイの農民(アラヤー・ラートチャムルーンスック)

・川―両サイドに仮設住宅跡地、中央奥に震災復興住宅をのぞむ(米田知子)

神戸駅前ビル―神戸1995(宮本隆司)

・ウォータールー橋(ミレー)

・大辻清司、村上三郎

・「温度」の項目⇒作品の劣化や修復もまた芸術が変化する過程であるのでは?作品とは普通「ある一時点で完成されたもの」だが、時間と共に変化することすら作品の一部として捉えることも可能ではないだろうか。例えば、作品が作られてから、劣化して壊れていくまでの過程を映像記録に残してみるとか。この発想は「ゆく川は絶えずして~」という日本人的発想だからチャレンジできる試みだと思うのだが。

広告メモ

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これまでは数字の無い定性的なストーリーで 自分の意見に誘導するのがメインでした。 (有名人が言ってるんだぞ!っていうのもこちら側ですかね。) 時代は代わり、とりあえず数字を出して、 恣意的な解釈の元に自分の意見に誘導していくのが、 これからのスタイルになっていくんでしょうね。 受け取る側のリテラシーにさらなるレベルアップが必要とは また大変な世の中になったものです。

 このコメント、その通りだな。これに関して青土社の『統計はウソをつく』が読みたいのだが、ページ数の割にお高いのでまだ買えない。。。データが神のごとく扱われる時代になれど、データ自体の信ぴょう性を疑うリテラシーはまだ育っていないからね。それに、生活者の側からそこまで疑うのは面倒というのもある。この「面倒」って大事で、生活者を(不快のないレベルで)面倒にさせて、ツッコませないのが広告作る側の策略。