メモ帳

千葉の田舎で生まれ、東京の出版社で働いている20代。ノンフィクションを中心に、読んだ本や観た映画についてのメモ代わりに書いています。

映画の感想:『秋のソナタ』

早稲田松竹にてイングマール・ベルイマン特集。本当は『第七の封印』とかも見たかったのだが、そちらは3日間だけの上映だったこともあり予定が合わなかった。

そういうわけで、『冬の光』『秋のソナタ』の2本を見てきた。まず『冬の光』の方だが、途中でうたた寝してしまった。というのも、『処女の泉』を始めとした「神の沈黙」をテーマとした作品だったのだが、序盤で物語の展開がわかってしまったからである。

このテーマは遠藤周作などでそれなりに触れてきたこともあり、シナリオが淡泊に見えてしまった。もしこの作品をずっと前に見ていたら感銘を受けたのかもしれないが、残念ながらそうではなかった。丁寧な描写はすごく「らしさ」があって、やはり良いなあと感じたが、作品どうこうではなく個人的に「神の沈黙」というテーマはお腹いっぱいだったのである。

むしろ二本目の『秋のソナタ』が秀作だった。主な登場人物は4人だけで、娘と母の対話が映画のほとんどを占めている。脚本自体も捻りは少ない。だが、いやだからこそ丁寧な描写と娘(リヴ・ウルマン)と母(イングリッド・バーグマン)の演技力が光った。「目は口ほどにものをいう」とは、正にこのことである。文学作品にもできそうな物語だったが、彼女たちの演技は間違いなく「映画だからこそできる表現」であって、一つ一つの所作が100の言葉よりも心情を上手く表していた。母が口を言いあぐねて口をパクパクさせる所や、娘が何度も口を両手で覆う所、ワインの飲み方などなど・・・。数え上げたらキリがない程、全ての動作に意図があった。(もちろん台詞回しも素晴らしかった。)

演技の臨場感や映像の撮り方など、映画よりも演劇に近い作品だなぁと感じた。

 

あと単純に、こういうえエグい感じの話が個人的に好きということもある。ただ酔いに任せて今までの恨みつらみを語るだけなのだが、その言葉たちがまたリアルなのだ。自分が親だったらこれはエグられるなー。

とか思っていたら、最後の方のシーンで娘の下を去った母が、列車でマネージャーに対して(というよりかは、独り言のように?)「早く死ねばいいのに(下の娘に対して)」とサラッと言っちゃうあたり!直接の対話のシーンではないが、ある意味でここが一番エグかった。てっきり悔恨に襲われて反省しているのかと思いきや、そんな色は全くなし。なんだかコメディーのようですらある。まあ一応、自らの罪に対する自覚はあるようだが。(それをどう捉えるかは別として)

 

派手さはないけど中盤辺りからはヒリヒリしっぱなしで、とびきり素晴らしい作品でした。

フットボール観戦記:ローマvsバルセロナ

 

注目はローマの入り方だったが、対バルサのオーソドックスなスタイルを選んできた。ガンガンいかないのは、昨年のバイエルン戦が教訓となっているはず。それに初戦ということもある。0-0でも良いのだろう。

一旦全員が自陣に戻るのが約束事になっている。おそらく強みである中盤3枚の位置で勝負したいのかと。ローマにとって理想のボール奪取は、ハーフラインとPAの間あたりでひっかけることかな。だからベタ引きというよりかは、隙を窺いながら守っている感じ。(時間が経つにつれてベタ引きになっていってしまったが)

 

オフェンスは基本的にカウンターになってしまうが、無理やりいかないのがミソ。カウンターできなさそうなら、慌てずにポゼッションしようという狙い。確かに戦力的にはある程度ポゼッションも可能である。ローマのオフェンスは、少し引いてきたジェコにミドルパスを入れてポストさせるのが利いている。トッティ程のパスセンスはないけれど確実にボールが収まるし、バルサ相手でもタイマン張れるクオリティは持っている。

ただ当然、時間が経つにつれてジリジリとバルサが押し込んでいく。ここでローマが大事なのは、ラインを下げ過ぎないこと。ずるずる引いてPA内へ入ると、PKやらこぼれ球のリスクが増大する。あくまでPAの前に一線を引いて、コンパクトに守る必要がある。今日のローマのディフェンスはなかなか集中している。バイエルンに高い勉強代を払っただけはある(笑)マノラスは相変わらずカバー速いし、新戦力のリュディガーは対人強い系だね。こういうイカツイ選手は結構好き。

と思っていたら、バルサが先制。フリーのラキティッチにパスが通った時点で勝負あり。やはりラキティッチはよく動く。多分ファルケが離してしまったのかな。

余談だが、この「前線の選手の後ろでの守備」って難しいよね。相手陣内でのプレスは頑張れても、こうして自陣で守る時はマークを離してしまう。これはオフェンシブな選手の「習性」みたいなものか。ただその内、サッカー選手もバスケット選手みたいに攻防を兼備える必要性が出てくるのだろう。ジョーダンとかコービーみたいに、超一流まで行けば攻撃と守備のクオリティは比例するからね。(もちろんNBAにも「職人」はいるが)


さて、その後もバルサペースが続くが、フロレンツィがハーフウェイ手前からダイナミックな持ち出しからの・・ 超ロングシュート!これが決まって1-1。これはローマとしては勇気づけられる。ローマはその後も、基本的には引きながらも2,3回ゴールの予感を漂わせて前半終了。最後の方は前プレかけてリズムを変えていたし、とても良い終わり方だったと思う。

後半はより一方的なバルサのペース。ローマは頑張って耐える。やはりSBの上りまではケアできず、CL決勝であったような中央手前メッシ(バイタルへのカットインを窺わせているから、ディフェンス陣は容易に近づけない)⇒左の裏へ走り込むアルバへのフライスルーパスが何本も炸裂する。しかしナインゴランやマノラス、リュディガーが体を張って防ぐ。ローマのCB2枚は良いね。

途中シュチェスニーが怪我で交代するというアクシデントもあったが(なんでアイツはあんなにふてぶてしい表情をしているんだ?w)、何とか耐えきって1-1発進。ローマは後半15分辺りから、明らさまに引き分けを狙っていた。良くも悪くも去年までだったら考えられなかった姿勢。やはり理想主義で勝ち点を逃してグループリーグ落ちした苦い経験が影響している。


レバークーゼンとの2位争い一騎打ちを考えると、ここで勝ち点1を拾うのはめちゃくちゃ大きい。試合展開なども考えると、ローマとしては勝ちに等しい引き分けだろう。

 

フットボール観戦記:マンチェスター・シティvsユベントス


CLがいよいよ開幕する。第1節最大の注目カードはこれ。まあこの組はどのカードも注目なのだが。(ボルシアMGも期待はしているが今季は内容結果ともにあまりにも最悪の出だしなので、デ・ブルイネ絡みの話題性も含めてヴォルフスブルクに入ってほしかった感は出てきているw)

シティはシルバが怪我からすぐに戻ってきたのが大きい。パレス戦では明らかに彼の不在が響いていた。
アタッキングサードでの崩しのクオリティが明らかに下がっており、いかに崩しの局面をシルバに依存していたかが如実に表れていたからね。


あと、スタメンはともかくベンチが豪華すぎる!直前の試合で怪我で途中交代したアグエロはともかく、デ・ブルイネにナバスにオタメンディとかチートすぎるやろ。選手層の厚さはバイエルンに次いで世界ナンバー2だと思われる。

 

余談だが、本日出場しているナスリについて。彼の使い方は、今季難しくなるかも。シルバ程抜群のパスセンスがあるわけじゃないし、スターリングのドリブルやナバスの縦へのスピードみたいな武器もない。器用な選手ではあるのだが、圧倒的な武器がないんだよねー。しかもデ・ブライネが来ちゃったわけだし。今のシティでスタメンはるにはきついかなー。別に悪くはないんだけど、あえて使う必要もないよなって感じ。

ただメンタルがアレな選手だから、控えが続いたときにどうなるかはある意味見もの。正直このスカッドなら、ナスリ放出でミルナー残留の方がペジェグリーニは10倍嬉しかっただろうね。

 


一方ユベントスは、新加入選手が多くて未だ構築中って感じ。この状況で移籍マーケットが閉まる直前にエルナネスを獲得したのは、アーセナルがアルテタを獲得した時と似ている。頭の良いアッレグリは切実にそれなりの計算できる選手を欲していたのだろう。

やはり、ピルロテベスという攻めの根幹を担っていた選手が抜けてしまったのはあまりに痛い。ディバラはポテンシャル秘めているし個人的にも大化けすると予感しているのだが、やはりリスクヘッジを考えて即戦力で計算の立つエルナネスを取ったのだろう。ディバラはアタッカーの要素が強いという点からも、中盤で試合を作れる選手を求めていた節がある。

 

また今期から10番をつけるポグバだが、彼は「6番」強いて言っても「8番」って感じ。スケールが半端ないのはそりゃそうなんだけど、細かいプレーの精度や崩しのアイデアは「まあまあ」ってくらい。もちろん並みのセンターハーフと比べたら上手いのだけれど、他の「10番」と比べたら流石に落ちる。

ポグバの長所は「奪う」「運ぶ」「決める」を一人でできてしまう点であって、「捌く」のはそこまで上手くない。正直周りがポグバに期待しすぎているし、何より期待しているポイントが違うと思う。ポグバに「10番」を求めすぎるのは、彼の良い所(例えば守備の姿勢とか)を消しかねない。(尤もポグバ程の素材なら、その期待を上回る進化を遂げる可能性もあるが・・・。とりあえず今日はヤヤの捌きを見て成長してほしいものですね。)


まあGK含めたDFラインが完成しているのは、未だに大きな強みである。個人的にクアドラードのプレイは見ていて面白いので、チェルシーでのお寒い時代を忘れさせるようなイケイケを期待。あとディバラにはぜひとも更なるブレイクをしてもらいたい。この辺りの選手が絡んで新しい攻撃の形が作れて来たら、戦力的にスクデットは堅い。スタートは躓いたが、今のセリエではやはり頭1つも2つも抜けている。


ということで試合へ。

・クアドラードは勢いがある。やはりチェルシーの様なご丁寧な攻め方よりセリエの方が水に合うのかな。
・実況の下田さんが言うように、ボニーは確かにCBコンビに対して劣勢。まあ相手が悪いとも言える。純粋なクオリティだけでなく相性的にもアグエロの方が良いからね。
・モラタはかつてのテベスのようにFWの位置から引いてボールを引き出そうとしている。それ自体は良いのだが、やはり足元がおぼつかないからプラマイゼロ。彼はまだ成長途上だし、より直線的なプレーが持ち味なのだからテベスを求めるのは酷である。こういうのはディバラの方が良い。

続いて後半。

・シティがキエッリーニのOGで先制。キエッリーニボヌッチはこういう小賢しいことをよくやるからなあ。セリエ基準でやってもCLじゃふぁうるもらえないよ。

・ポグバの神クロスからマンジュキッチが触って同点。ポグバはこういうキック自体の質は本当に高い。クアドラードも同様のクロスを何回かあげていたし、おそらく相手CBとの2対2でアーリークロスをファーに入れる形は、相手の弱点を研究して決めていた形だったのだろう。(マンガラは前の対人には強いけど裏には弱い、注意力も散漫だし)

・プレースタイルもあって今日いまいちだったモラタがまさかのゴラッソ!で逆転。結局決めればなんぼなんですよFWはww ボニーもモラタもともにいまいちだったが、ゴールという結果で明暗が分かれた。

・シティは相変わらずCLと相性悪いなー。今日も特別に悪い出来ではないのだが。(とはいえ良いわけでもない)

・逆転されてからシティがどう振る舞うかに注目して見ていたが、困った時のシルバ頼みは変わらず。縦に仕掛けられる選手がフィールドに残っていなかった&アグエロが怪我明けだった(それでも前は向こうとしていた)のもあるが、1-2になってからの攻め方には不満が残る。追いつくための明確なビジョンがなかったよね。デ・ブライネも、ここではまだ王様どころか王子ですらないことがよくわかった。(流石に来たばかりだから仕方ないが)

・何よりペジェグリーニに戦術的な幅がないことだよね、問題は。ロングボール使うでもなく、サイドから攻めるでもなく、試合展開に応じた戦い方ができないのは致命的。横綱相撲が出来る時は華麗&豪快に押し切れるけど、今日みたいな状況になった時に打開できるようには見えない。

 ・それでも選手のポテンシャルは欧州随一だから、トータルではかなりの成績は残せるかと。ただ、シーズン中に2,3度ある「天下分け目の一戦」に勝てるようには見えないなあ。去年のバイエルン戦みたいに毎回アグエロの「神がかり」に頼るわけにもいかないし。

学問の政治と一庶民の政治

国際政治経済学の授業で見た『フェイル・セイフ』(未知への飛行)という映画がある。監督は『12人の怒れる男』などで有名なシドニー・ルメット

冷戦期の核戦争へのシナリオがどう想定され、その際の恐怖がどう表象されているのかを知るために流された映画だったのだが(『博士の異常な愛情』と同じようなもの)、個人的に興味深かったのは映画内でのアメリカ大統領の「ある重大な決断」である。

彼は「もしモスクワへ向かう核爆弾を止められなかったら、その時はニューヨークにも核爆弾を落とす」と言った。そしてラストシーン、彼は自らの指示で、ニューヨークを灰燼に帰すこととなる。自分たちの不手際が引き起こした自体への謝罪と誠意として。

ここには何の論理的整合性もない。そこにあるのは「筋を通す」という考え方である。(テンプレ的な文化論からすれば)日本人が好きそうでアメリカ人が嫌いそうな発想だが、これをアメリカ大統領がやる所に関心を惹かれた。

いくら学術的用語や概念を用いたり、理論を精緻化したりしたところで、政治とはどこまでいっても人間の泥臭い営みである。だから結局は「筋を通す」みたいな感覚が問われるのだと思う。

と、(一応は)政治学を中心に勉強してきた(させられてきた)意識低い系の留年生は思うのであります。やはり学問として政治をやると、大雑把に物事の要点をおさえることができなくなってくる。安保問題にしたって、僕の庶民的感覚が叫んでいるのは「誰が賛成だ反対だの叫んだところで、国の中枢はアメリカに尻尾振って「やります」って言っちゃってるンゴ・・・」という諦めに似た思いである。だから政治を学問として続ける人はすごいし、自分の中の庶民感覚みたいなものを維持するのは大変だと思う。から尊敬するし、勝手に心配もしている。

(安保法制に関してはいつかまとめて書かなければいけないと思うのだが、それなりにちゃんと書きたいからまた今度。)

 

さらに話はそれるが、第二次大戦後の日本は「筋を通す」という観点から昭和天皇を退位させるべきだったのではないだろうか。(形式上は天皇みずからの判断ということでも良いかもしれんが。)天皇は利用されていただけ」という声があるにせよ、象徴としてトップにいる彼の判断は重いわけで。結局日本の戦後は、天皇が筋を通さなかったために今もこうして筋を通さないのが当たり前という姿勢にずるずるとおちいったのだと思う。もし天皇の戦争責任をより厳しく追及していたら、どのような形にせよ「なあなあ」ではなく「筋を通す」ことを重んじていれば、日本が「無責任国家」となることはなかったような。これも安保の話に繋がるんだけどね。

最近のニュースに関する覚書

めも

特にオリンピックのロゴ問題などを見ていて思ったこと。

骨(=メディアネットワークの拡散能力、伝播力)の成長に対して筋肉(教養、知性)が追いついていない。今のインターネット空間は「精神のオスグッド病」と言える状況ではないだろうか。ルサンチマンと短絡的義憤が一般意志となり、数少ない(だが、だからこそ貴重な)専門知識や冷静な論理思考を呑みこんでゆく。マッカーサーは日本を12歳と言ったが、今のネット空間は14歳だろう。(これに関しては、ネット空間の成立から日が浅いのだから必然と言える。別にそれが良いとか悪いとかではない。)

 

悲観してはならない。というよりも、「世の中なんて所詮こんなもの」である。厄介なのは無能な人間も有能な人間と同等の骨を持っていることだが、これは仕方のない成長である。『大衆の反逆』で知られるオルテガが今の状況を見たら発狂するかもしれない笑

 

あらゆるもの、あらゆる人の声が可視化されていく中で、大切なことは「本物を見つける力」である。「この人の言うことは信頼できる」と感知するメディアリテラシーが本当の意味で求められている。それは砂金探しのように面倒だが、その面倒を省略してくれるツールだって続々と開発されているわけだから。

唯一怖いのは、そういう人のせいで真っ当な知識や経験を持つ、いわば「語るべき人」が語ることを恐れ、ためらってしまうことだ。(雑誌やテレビなど他のメディアに出られる程有名ではない人が「語るべき人」である場合も多い)

映画の感想:あの頃ペニー・レインと

完全にタイトル勝ち。「イエスタデイをうたって」ばりの名タイトル。これがもし原題の"Almost Famous"だったら、俺はこの映画を観ていなかったはず。たまにこういうタイトルを付けるから邦画版も侮れない。

映画自体は普通にまあ面白いんじゃん?まあ青春映画だしひねりがあるというよりは王道で人間関係の機微をよく描いてるなって感じ。主人公とバンドのリーダーは『BECK』のコユキとリュースケみたい。

個人的には、「グルーピー」の概念が時代と国のせいでイマイチしっくりこなかった。オッカケであそこまで付き合える時代だったんだね。日本も昔はそうだったのかな?70年代のシーンがどんな感じだったのか肌感覚でわからないからしっくりこなかったのだろう。

あと、母親と姉の和解だったりはもう少し丁寧に描いても良かったと思う。敬虔なカトリックの保守層である母親は、いわば主人公側の人たちとは真逆に位置するわけで、母親の存在が主人公にどう影響しているかや、逆に母親がどう変わっていったのかをもっと描いてもよかったと思う。(そちらがメインになると青春映画というよりもヒューマンドラマになってしまう節はあるか)

別に特別な感慨は抱かなかったが(当事者性のなさも影響しているか?)、『6歳の僕が大人になるまで』とかと同じく良質な青春映画ではあった。

映画の感想:イージーライダー

アメリカンニューシネマといえばこれ。冒頭の"Born to be wild"の「あがるぅうう~!!!」って感じからの失墜感が見もの。

ニューシネマっぽい印象的な会話がこれ。

ハンセン:アメリカはいい国だった。どうなっちまったんだ?
キャプテンアメリカ:臆病になったのさ。二流のモーテルさえ泊まらせないんだ 何をビビッてやがるんだ?
ハ:怖がってるのは、君が象徴してるものさ
キャ:長髪が目障りなだけだ
ハ:違う、君に"自由"を見るのさ
キャ:自由のどこが悪い?
ハ:そう、何も悪くないさ 自由を説くことと自由であることは別だ 金で動くものは自由になれない アメリカ人は自由を証明するためなら殺人も平気だ 個人の自由についてはいくらでも喋るが―自由な奴を見るのは怖い
キャ:怖がらせたら?
ハ:非常に危険だ

この「非常に危険だ」って言った後のシーンで、ハンセンが南部保守の野郎どもにリンチにあって殺されるのは象徴的。

 この時代の閉塞感と開放感の絶妙なコントラストは面白いなー。

今の時代は逆に「開かれ過ぎて」いることへの拒絶感が強くて、それを可視化してくれる映画を見てみたい。もしくは魔術的なものが生き残る世界への哀愁、みたいな。

 

ただ、物語としてはリアリティなさすぎじゃね?とか冷静に思ってしまった。これがジェネレーションギャップなのか・・・?不条理でも理不尽でもいいんだけど、話の筋が通ってないのがなー。もっと「社会的な死」であることが伝わる殺され方の方が良いのに。死が全部、南部の田舎保守によって単発的にもたらされているのがどうもしっくりこない。これだと彼らに死の責任が矮小化されてしまう。(もちろん彼らはアメリカの病理の「象徴」なのだろうが)

もっと「システムそのもの」や「人間の悪意の総体」に殺される図がほしかったなーなんていうのは中二なのかしら。