二流社会人のメモ帳

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映画の感想:アンダー・ザ・スキン 種の捕食

時間ができたので、松竹へ足を運ぶ。だが正直、観る前から期待はしていなかった。なんでかって、タイトルがダサいから。(それでも見たのはSF作品だから)

完全に個人的な意見だし反例もクソほどあるんだけど、英語の原題をそのままカタカナ表記して、かつ副題で日本語を付けた作品にろくなものはない。英語タイトルだけにするか、『それでも夜は明ける』みたいに日本語訳するかハッキリせい。

まあ、タイトルがダサい映画ってそれだけで見る気が失せてしまう。これは音楽業界にも言えることで、有名な洋楽のアルバムは日本盤も発売されるわけだが、大概の曲名がひどい訳し方である。MUSEのアルバムとか笑った記憶がある。

おそらく業界的には「わかりやすさ」を求めているのだろうが、それによってコンテンツの価値が貶められていることを自覚してほしい。(とは言っても、邦題付けた方が売れるんだろうなあ…)

 

さて、話が逸れたがこの映画は結局、予想通りつまらなかった。良い点と言えば、スカーレット・ヨハンソンのヌードが見れるくらい。それだけで1000円払ってもOK!って人はいるかもしれないが…。

 

一体この映画、何を求めて見ればよかったのだろう?映画を通じて何を表現したかったのかが、全く伝わってこないのだ。

 

例えば安倍公房の作品を例にすると、ストーリーが順当に「起承転結」という形で進むことはまずない。途中でぶつ切りになったり、いきなり違うシーンへ飛躍したりする。それは、あえて「普通」の構造を歪めることで伝えたいものがあるからだ。だから安倍公房の場合、筋だったストーリーが存在しないのではなく、歪められている。

 

また例えば『トランスフォーマー』『ゼロ・グラヴィティ』なんかは、ひたすら映像美を極限まで追い求めている。これらの映画において、ストーリーとは映像を転換させるための「装置」でしかない。それはそれで、(個人的には好きじゃないが)映画として一つのあり方だ。(反対に、この手の映画はストーリーに凝りだすと失敗する。「ワイスピ泣き」とかいうハッシュタグが典型ですね笑)

 

これらの例を通じて言いたいのは、物語の描き方は「監督が何を見せたかったのか」から逆算されているということだ。自分の読解力不足で読み切れない部分はあっても、「ここは何らかの意図があるんだろうな」と感じることはできる。

 

だが『アンダー・ザ・スキン』には、それが一切ない。「メッセージなんかいらねえよ!」っていう耽美派の様な映画もあるが、それとは違う。ホラー映画は「怖がらせる」、恋愛映画なら「ときめかせる」というそれぞれの狙いがあるが、この映画を見た人に何を感じ取ってほしかったのだろう?スカヨハのお尻がでかかった印象以外、何も残らない。

 

「たまにはこういう映画を見ることで、全てのコンテンツが魅力的にはなれないことを再認識するのも大事だよね!少なくとも反面教師としての役割は果たしてくれたし、スカヨハのおっぱい見れたからオッケー!」と自分を納得させるのであった。いや納得いかんわ。

 

二本目の『マップ・トゥ・ザ・スターズ』は、まだマシだったかな。所々笑えるシーンがあったし、全体的には悪くなかった。けど、脚本にツッコみどころが多かった。あと個人的に、トラウマを使って物語を進めるのはあまり好きではない。

 

やっぱり、脚本って大事。