メモ帳

千葉の田舎で生まれ、東京の出版社で働いている20代。ノンフィクションを中心に、読んだ本や観た映画についてのメモ代わりに書いています。

映画の感想:マグノリア

ブギーナイツ』に続いてのPTA。オリジナル脚本でこれが作れるのはスゴイ。

興行的にはイマイチだったようだが、確かにこちら側が理解するために労力をかける必要のある作品ではあった。あと個人的に、彼はもっとポップで明るい中にも悲劇性のこもったような作風の方が向いているように感じる。要はブギーナイツ的な喜劇の方が得意なのではということ。

マグノリアは良作だし個人的にはこういう作品は好きだけれど、PTAの映画としてはブギーナイツの方が肌に合うものを作っているように感じた。あくまで向き不向きの問題だが。

後はやはり、音楽の使い方にこだわりが感じられる。多少やり過ぎな感もあったが。公開時のインタビューでの以下のコメントを拾って納得。

ブギーナイツ』も曲が前面に出ているわけですけれども、僕は、この『マグノリア』も一種のミュージカルだと考えておりまして、大変大きな位置を占めていると考えております。

 

この映画の大きな特徴であるテーマに関して。カエルと旧約聖書の関係性は他の記事で書かれている通りだと思う。そう言えば、『海辺のカフカ』でも蛙が降ってくるシーンがあるけどあれもそういった神秘性に由来しているのだろうか。

 

「罪と赦し」という問題はもちろん、ラストの方で登場人物が吐き出す「愛があるのに、そのはけ口が見つからないんだ。」というセリフがこの作品を象徴しているのかな。

あと興味深いのは、コカインの話と娘への性的イタズラ(未遂?)に関しては、「赦し」が適用されていないこと。

これによって、ただ「赦すことが大事!」と伝えるのではなく、警察官の台詞の通り「何を赦して、何を裁くのか。それが難しい。」というメッセージになっている。確かに何でもかんでも簡単に赦すわけにはいかないから、個人的に映画内でそれらの罪が赦されなかった(あるいは赦されないことを恐れて言えなかった)ことは非常に重要だと思う。

そりゃあ赦すことは大事だし、もちろんいつかは赦すのかもしれない。だけど、その瞬間が映画内で訪れる必要はない。もし作中で赦されてしまうと「そんなにアッサリ赦しちゃうのはなぁ、リアリティないなぁ」と感じてしまう。

赦しにはどうしたって時間が必要なものだし、赦される側ではなく赦す側の問題として、どうしても赦すことのできない人もいる。人によっては、赦せないけど前を向くしかない、っていう複雑さを背負って生きていく場合もあるわけで。

 

また、エンディングについては以下の様に述べている。

僕がいつも目標としているエンディングというのは、もっともハッピーで、もっとも悲しいということを念頭に置いて作ります。

 

確かに面白かったし、こういうメッセージ性のある作品はとても好きだ。だが、PTAはしっとり系の映画ではなく喜劇的な展開の方が向いているとも思った。ドストエフスキーじゃなくてゴーゴリ、太宰じゃなくて芥川ってことか??(『ゼアウィルビーブラッド』『インヒアレントヴァイス』『ブギーナイツ』とそうしたタイプの作品しか観ていないためバイアスがかかっているのかもれいないが、そう感じた。)

 

 

映画の感想:ブギーナイツ

 

PTA(学校のアレじゃないよ)ことポール・トーマス・アンダーソンがその名を知らしめた作品。『インヒアレント・ヴァイス』を先に観ていたせいか、撮り方や台詞回しでニヤニヤするシーンが多かった。

 

やはりPTAはテンポの良さが素晴らしい。観ていてストレスがない。シーンの移り変わりなどもぎこちなさが全くなく、極めてスムーズである。

テンポの良さとも通ずるのだが、軽いタッチが特徴的でもある。特に、死のあっけなさ。こういうもったいぶらない殺し方・死に方が好きである。暴力とは唐突に至ることが一つの特徴だと個人的に思っているのだが、PTAはそれを良く理解している。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のラストシーンにも言えることだが、彼はこういう「喜劇的」な撮り方が抜群にうまい。

また、脚本を自分で書いているのにも好感を持てる。個人的に脚本も自分で書く監督はシンガソーングライター>歌手みたいな感じでちょっと上に観てしまう。(別に監督の役割を否定するわけではないし、自分が脚本の立場で作品を観てしまう癖があるのは承知しているが。)

ストーリーは意外性と普遍性を兼ね備えている。ポルノ産業という少々トリッキーなテーマだからこそ、良い意味で普通のストーリーが光る。群像劇とそれぞれの起承転結がバランスよく丁寧に描かれている。一周周って再スタート、という終わり方などは完全に王道映画のそれである。

 

あと、PTAは映像と音楽がおしゃれ。そりゃ映画監督なのだから映像がおしゃれって当然だろ!ってのはその通りなのだが、いちいちオシャレというか、やりすぎない程度に捻りが利いている、ような気がする。雰囲気って大事だよね(笑)

 

 

2015年に観て面白かった映画たち

 

【今年公開ではない映画】

5位:秋のソナタ

4位:ノッキンオン・ヘブンズドア

3位:ノーマンズランド

2位:七人の侍

1位:マルホランドドライブ

【今年公開の映画】
5位:インヒアレントヴァイス

4位:セッション

3位:ナイトクローラー

2位:Mommy

1位:バードマン

次点はマッドマックスと6才のボクが、大人になるまでかな。

今年はまずアップリンクで野火、雪の轍、ルックオブサイレンスを観たいと思っています。

余談だけれど、講談社ブルーバックスから出ている『基準値のからくり』という本がとても面白い。

2015年個人的に面白かった本たち

 
2015年個人的に面白かった本たち (※今年「出された」本ではなく、今年「読んだ」本)

【新書編】
10位:タテ社会の人間関係/中根 千枝
まあ有名な作品。こうした社会心理学では、山本七平の『空気の研究』も非常に面白い。また、こういった「日本文化論」(『菊と刀』『ジャパン・アズ・ナンバーワン』etc)自体をメタ的に知りたければ『日本文化論の変容』が良い。特に驚きがある内容ではないが、それなりに上手くまとまっている。

9位:目の見えない人は世界をどう見ているのか/伊藤 亜紗
馬場歩きしている時にタイトルと全く同じことが気になって買ったら面白かった。健常者を4本脚の椅子だとすれば、視覚障碍者には3本脚の椅子なりのバランスの取り方があるという着想。こういう考えたかができる人間になりたい。
この本みたいな「人間の可能性」みたいな話は、知的好奇心をくすぐられる。また、障碍者とどう向き合うかという問題にもヒントを与えてくれる。

8位:教養主義の没落/竹内洋
戦前戦後の日本における、若者と「教養」の関係を探っている。これと関連性の高い『「戦争体験」の戦後史』も中々面白かった。正直関心の持たれにくい分野だけれど、一つの歴史として知っておくと案外捗るのかなーとは思う。「教養主義」も「半知性主義」とセットで最近流行りかけているし。それにしても、やっぱり中公新書はクオリティが高い。

7位:資本主義の終焉と歴史の危機/水野 和夫
別に話自体は今更珍しくもないのだが、新書でシンプルによくまとまっている。資本主義の未来とか恐ろしそうだなーってボンヤリ考えている人におすすめ。とりあえずこれだけ読んでおけば、最低限の話はできる。

6位:著作権とは何か/福井 健作
ロゴ問題でガタガタぬかす奴は全員せめてこれは読めと言いたい。同じ著者の『「ネットの自由」vs著作権』『誰が「知」を独占するのか』『著作権の世紀』まで読めば、現代のコンテンツをめぐる環境や諸問題が政治と経済の両面から理解できる。非常に優れた書き手。

5位:コンテンツの秘密/川上 量生
コンテンツ産業にかかわる人はマスト本だと思う。やっぱりこの人は話のオリジナリティが際立っているから面白い。その上でカリスマ経営者にありがちなウザさがない。良い意味で一般人なんだなと思う。ちなみに『ニコニコ哲学 川上量生の胸の内』も面白い。

4位:わかりあえないことから~コミュニケーション能力とは何か~/平田 オリザ
わかりやすく、面白く、深く、ためになる。これぞ新書って感じ。特別何かの専門知が身につくわけではないが、生きる上でとても役立つ。日本語における「対話」の少なさなど、言われると「確かにな~」と納得できる話がたくさん詰まっている。余談だが、この本を読むまで平田オリザは女性だと思っていた…。同じく講談社現代新書で出ている『演劇入門』も面白い。

3位:イスラーム国の衝撃/池内 恵
イスラム国のことを少しでも考えるなら絶対に読むべき本。これを読むのと読まないのでは、イスラム国関連のニュースや議論に対する反応が全く異なる。

2位:差別と貧困の外国人労働者/安田 浩一
在特会」への取材でも知られるジャーナリストによる、技能実習生などへのルポ。この問題は「Made in Japan」礼賛時代の今、一人でも多くの人が知るべき。読んでいて恥ずかしくなる。
(講談社G2での連載は、この本よりも新しい話だしタダで読めるからおすすめ。)

1位:なぜ戦争は伝わりやすく平和は伝わりにくいのか/伊藤 剛
戦争などの政治問題を、コミュニケーションの視点から読み解く本。著者はシブヤ大学などを設立した元広告代理店の人だから、話もわかりやすい。田中先生のメディア論の講義に通ずる面白さ。入門書くらいのレベルだから誰でも理解できる。

【ノンフィクション編】

5位:本は死なない/ジェイソン・マーコスキー
AmazonKindleの開発に携わった著者が語る、電子書籍を中心とした本の未来。何より良いのは、著者が「テクノロジー加速進化肯定派」「情緒執着派」という相対する両方の立場をよく理解し、自分自身もその狭間に立っていること。これは、MITで数学とライティングを専攻した著者の経歴が影響しているはず。
議論のバランスがとれているので、この一冊を読むだけでコンテンツ・メディアの置かれた現状や未来への展望を善し悪し含めて考えることが可能である。こういった二項対立の問題を冷静に、優しく語ることができる立場の人間は貴重である。

4位:裸でも生きる/山口 絵里子
マザーハウス創業者の話。続編の2も面白い。見城徹の『編集者という病い』を読んだ時と同じことを感じたのだが、こういう人は「キ○ガイ」なんだと思う。快楽原則のバランスがおかしくて、他の人と全然違う所にある。その「歪み」を才能と呼ぶなら一種の天才ではある。
だから「この人すごいなあ」と思うのと「自分がそうなりたい」と思う間には絶望的な落差がある。二十歳を過ぎた辺りから「ぶっちゃけこの人の人生は大変そうだなあ…」と感じるのが一般的な感覚ではないかと。(多数派と少数派のどちらが正しいとか優れているとかいう価値判断はないけれど)

3位:中国化する日本/與那覇
ザックリと近年の日本の動向を把握するための歴史教養書。最近の日本の政治経済における様々な改革(あるいは改悪)を包括的に捉える視点が得られる。案外、こういう専門知と一般教養を繋ぐ王道の本って最近は少ないような。

2位:内向型人間の時代/スーザン・ケイン
シャニカマエルマンの必読書。要約だけでも知っておくと役に立つかと(全部読むのは面倒だし)。現代は(残念ながら)「人格」ではなく「性格」の時代、という著者の主張には大いに納得できる。

1位:敗戦後論/加藤 典洋
戦後70年を迎えた今、戦後50年の時点で書かれたこの本が持つ妥当性は(悲しいことに)ますます高くなっている。「ねじれ」の直視、右翼と左翼はジキルとハイド、といった話は本当にその通りである。
一瞬でも戦後日本について考えたいというちょっぴり真面目な気持ちが生まれたら読むべき。白井聡の『永続敗戦論』も、言っていることのロジックは同じだと思う。


【小説編】※近代小説の流れそのものを知りたければ、三田誠広(早稲田出身の芥川賞作家)の『超明解文学史』がわかりやすくてオススメ。

5位:さようなら、ギャングたち/高橋源一郎
最近はSEALDs関連でよく出てくる方だが、その政治的姿勢への賛否とは関係なく面白い小説。正直こうしたポップ文学(って呼ぶらしい)は論理的に考えると意味不明になるので、合わない人にはトコトン合わない。ただ、意味の分からないものを意味のわからないままで「なんとなく」面白いと感じられる人にはオススメできる。Dont'think,feel!ってタイプの作品。

4位:戦争の悲しみ/バオ・ニン
ベトナム戦争に従軍して奇跡的に生き残った、生き残ってしまった著者による戦争文学の金字塔。「悲しみ」「哀愁」という言葉がぴったり。秋の夜長に読みたい一冊。(個人的に、この「悲しみ」は遠藤周作の『黄色い人』で頻出する「疲れ」と似た感覚なのかと思った。)
戦争文学全般で言えば、定番中の定番だが大岡昇平は面白い。

3位:枯木灘/中上健次
被差別部落が舞台だが、決して差別などがテーマになっているわけではない。読んでいて気持ち良い作品ではないしストーリーに抑揚があるわけではないから退屈するかもしれないが、それでも一冊読み終わると不思議な気分になる。三島由紀夫の文章がよく切れる日本刀だとすれば、中上健次は鈍器で殴るような、徐々に重みの伝わってくる文章だと思う。
ちなみに、被差別部落に関しては上原善広のノンフィクション(『日本の路地を旅する』『被差別の食卓』)が面白い。

2位:苦界浄土/石牟礼 道子
『戦争の悲しみ』にも通ずる「人間の尊厳」「魂の救済」という普遍的かつ根源的なテーマを、瑞々しく描き切っている。
解説を読んで確信したが、この人は小説家というよりある種の「イタコ」なんだと思う。だからなのか、読んでいる最中にこちらも作品へ潜っていくような、スポーツでいう「ゾーンに入った」ようなトリップ感覚が生じる。それが長く続くほど「時間を忘れるほど良い作品」になるのだと思うのだが、この作品はその点でベストである。

1位:万延元年のフットボール/大江 健三郎
読みにくいし長いし重いし、あまり人にオススメできる作品ではない。ただ、個人的にはとても好きな一冊。「悪文」とも称される過剰に修飾・倒置がなされた文体に、四国の山奥という閉鎖世界。これらが重なり合って、時代の「閉塞感」「停滞感」が露わになっている。美しいものや爽快感を表現できる人は確かにスゴイが、こうした「不快感」を言葉に変換できる人はもっとスゴイと思う。恋愛映画よりホラー映画を好む人は余計にそう感じるのかも。
「熱い期待の感覚」や「本当のこと」など、自分が感じていたことを言葉に表してくれていて、救われたような気持になった。特に終盤にかけての蜜と鷹の会話には痺れる。

歴史は終わらない、けれど・・・

フランシス・フクヤマの『The End of History?』を読んでいる。

 What we may be witnessing in not just the end of the Cold War, or the passing of a particular period of post-war history, but the end of history as such: that is, the end point of mankind's ideological evolution and the universalization of Western liberal democracy as the final form of human government.

 

 For human history and the conflict that characterized it was based on
the existence of "contradictions": primitive man's quest for mutual recognition, the dialectic of the master and slave, the transformation and mastery of nature, the struggle for the universal recognition of rights, and the dichotomy between proletarian and capitalist. But in the universal homogenous state, all prior contradictions are resolved and all human needs are satisfied.

 

 The end of history will be a very sad time. The struggle for recognition, the
willingness to risk one's life for a purely abstract goal, the worldwide ideological struggle that called forth daring, courage, imagination, and idealism, will be replaced by economic calculation, the endless solving of technical problems, environmental concerns, and the satisfaction of sophisticated consumer demands. In the post historical period there will be neither art nor philosophy, just the perpetual care taking of he museum of human history.

 

彼にとっての「世界」はなんと狭いのだろう。ただ、おそらくフクヤマの様に単純な論を考える人は大勢いた。重要な点は①フクヤマの様な知識人がこうした考えを抱いたこと②この論文が大きな社会的反響を呼んだこと、である。

今から振り返って、何と愚かな考えだと切って捨てることは簡単である。だが、逆に言えば当時の「空気」はこの論文を生み出す程の高まりだったのだろう。確かにベルリンの壁崩壊からソ連の終焉に至る流れをリアルタイムで見れば、一つの時代に区切りが着いたと感じるのは自然なことだと思う。(=歴史の終わり、とはならないが)

なので、当時の雰囲気や言論状況を、その時代を生きていなかった自分たちの世代が感じるという意味では、この論文は貴重な資料なのである。フクヤマの「言い過ぎ」からそうした背景を感じる。

 

―余談

仮に普遍主義と文化相対主義を二項対立としてとらえるなら、個人的には文化相対主義の側に寄っている。だからフクヤマハンチントンの議論はイマイチ肌に合わなく、サイードの方が面白いと感じる。(ただし、ハンチントンの議論はフレームワークの提示という点では価値があると思う。)

普遍主義=西欧的価値観でなければ、つまりもっと以前の、愛や平和や自由といった漠然としたものならアリなんだけどなあ。結局そうした「普遍」は各人が抽象的にイメージせざるを得ないし、文化的背景により大きく異なる。別に普遍主義の否定=自由や平和の否定ではなく、それらの概念をどう定義するかは文化により異なるよねっていう話なわけで。

よく相対主義ニヒリズムに陥ると言われるが、個人的には虚構に寄りかかって後で失望するよりかは(例えば民族という名の宗教)、ニヒリズムと闘いながら生きる方がマシだと思うんだよなあ。というか、ニヒリズムに陥るのは「人や社会には何かしらの意味がある」ことを前提にしているからでは?そもそも意味などなくて、後付けしてくものだろうに。

映画の感想:『アリスのままで』

よく心の中で賭けをすることがある。視力と聴力、あるいは右腕と左足ならどちらを残すか、みたいな。

で、この賭けの中で最後まで残るのが「コミュニケーションをする力」である。だから自分の場合、視力と知的能力だけは最後まで残っていてほしい。あと最低限の表現能力(ホーキング博士のパソコンや『潜水服は~』のまばたき程度だとしても)もほしい。

ってことを考えることが多いので、アルツハイマー病はかなりえぐい病気である。祖父の姿を見たこともあり、アルツハイマーに対してはかなりネガティブな感情を抱いている。だからアリスの絶望はほんの少しだが理解できたし、理解しようとなった。たぶん自分がアルツハイマーなったら、彼女と同じ行動をとると思う。それを実行に移すか(そしてその能力が残されているか)は別として。やっぱり頭ははっきりしたまま死にたいなー。

 

あと、この映画のよかったところはアリスの「社会性の喪失」がしっかりと描かれているところ。おそらく彼女の年齢(まだまだ働き盛り)で辛いのは、仕事を辞めざるをえなかったりして社会性が一挙に失われる点だろう。充実感を失うことで、「病は気から」が助長される。もちろん社会の側からすれば仕方ないのだが。。。社会との断絶って精神的にかなりきついと思う。

映画の感想:『サンドラの週末』

最近読んだ平田オリザの『演劇入門』の中に、「問いの立て方で物語は決まる」という旨の話が合った。その話では『ロミオとジュリエット』『忠臣蔵』などを例に出し、「自分ではどうしようもない運命を前にして、人間がどう振る舞うか」が演劇の肝であり、その「運命」あるいは「問い」を立てることができれば、後はそれに対する様々な人物の動きを丁寧に描けばよい、というようなことを述べていた。

もちろんこの作り方が当てはまらない作品もあるのだが、「物語」の作り方としてとても納得できるものだった。

 

という観点の下で『サンドラの週末』を観たのだが、問いの立て方にリアリティを欠いているのが少し残念だった。

サンドラの復職か自分のボーナスか、の二者択一への投票を前にサンドラと各従業員がやり取りする、という話の構成自体は良い。サンドラを通じて従業員たちの様々な立場や考えの変化などを描くのも良い。

だが、主任を筆頭に従業員仲間以外の会社の人物たちがこの構成を邪魔している。彼らの悪意に満ちた姿勢を描いてしまうと、「従業員たちが団結して彼らに立ち向かう」という別のシナリオを想像してしまうからだ。

ポイントは、サンドラという一人の命(といえば大げさだが)と自分(と家族)の生活の対立に悩む従業員たちである。ある意味でサンドラは媒介でしかなく、例えばこの葛藤がもとで離婚する同僚などが主役である。

・会社という大きな組織を描くのが余計な論点を引き起こしている

・サンドラの復職が投票で決まることなど、問いの非現実性が解消されていない(どんなブラック企業w)

 

という点が残念だった。こういう『12人の怒れる男』っぽい群像劇は好きなんだけど、個人的にはサンドラの頑張りよりも従業員同士の葛藤を描いてほしかった。(まあそれは善し悪しの問題とはずれるのだが)