メモ帳

千葉の田舎で生まれ、東京の出版社で働いている20代。ノンフィクションを中心に、読んだ本や観た映画についてのメモ代わりに書いています。

映画の感想:『レヴェナント』

表現したかったものは『野火』と少し似ていて、映像世界が対比できるような作品だなあと感じた。かたやフィリピンの熱帯地獄、かたや西部開拓時代の極寒世界。どちらにも共通するのが、圧倒的な自然とそこで血みどろの戦いを繰り広げる男たち。

やはり撮影監督のエマニュエル・ルベツキは天才。映像の質感というかなんというか(自分に映像を見るセンスがあるとは思えないが)、あまりに陳腐だが「美しさ」が図抜けている。それぞれにあった質感を出せるのは本当にすごい。

ストーリーはまあ普通。悪くはない。今回は奇想天外な物語を作るのではなく、あの極寒のサバイバルを表現したい!というのが出発点にあったのだろう。

とにかく映像のすさまじさたるや。特にディカプリオが馬の死体からはらわたを引きずりだし、その中で眠るシーンは圧巻。

映画の感想:太陽を盗んだ男

1979年の日本でこんな映画が公開されていたのか…!という衝撃。今日の映画やアニメで表現されている大抵のポリティカルフィクションより、圧倒的で馬鹿馬鹿しくてスタイリッシュで面白い。電電公社逆探知ストーンズ公演の芝居は、『ダークナイト』における都市の盗聴と同じ問題(テロを封じるには市民の自由を侵害せざるを得ない点)を描いていると言える。

 

ただ、終わりにかけて少しメロドラマっぽくなるのが残念。ゼロが死ぬくだりも、そんなサラッと死ぬの?みたいな。ストーリーのために強引に殺してない?

特に最終盤での二人の会話(「あなたは犬だ!」「何が悪い!」のくだり)は蛇足だと感じた。そんなキザったらしいことを言わないのがジュリー演じる城戸の、他のテロリストと全く異なる良い所だったのに。あと菅原文太は流石に不死身すぎ(笑)何発撃たれてるんだよ(笑)というか撃つ方も心臓か頭を狙えよな。

とはいえ全体的に見ればとても面白い作品で、特に城戸のキャラクターは当時として画期的だったのではと思う。(「原爆作ったけど何したいかわかんねーわ」みたいなところ) これを現代風にリメイクしたら「原爆作ったから安価で声明出す」ってスレを立てるのだろう。

だからこそ、もっと城戸の愉快犯、とすら言えない冷めた心情を象徴するシーンがあればよかったのかな。例えばビルの屋上から5億円をばら撒くシーンも、城戸が追いつめられる前にあれば、彼の犯罪の性格を的確に表現できていたような。

そう感じるのはポリティカルフィクションが蔓延した30年後の現在だからなのかもしれないか。

 

余談だが、河瀬直美監督との対談での発言が色々と面白かったのでメモ。

 

●河瀬
 原爆の作り方とか、かなり調べてありますよね。スタッフの方が調べたんですか。

■長谷川
 そこは大事な部分だからな。そこがいい加減になってしまうと、映画全体がだめになってしまう。原爆については、スタッフに調べさせた。

 スタッフは体育会だから。相米(慎二)でも、俺の目の前では「はい」と言う。
 でも、相米が撮って来れなかった絵もあった。沢田研二の住むアパートの屋上でアリを撮ったが、アリがいい芝居をしない。何百フィートも回して使える一秒がなかった。

 猫がプルトニウムを食べるシーンの芝居は大変だった。最終的にはマタタビを使った。猫屋は、「(殺しても代わりは)何匹もいますから」と言うが、殺すのは嫌だった。相米が何百フィートも回して撮った。スローモーションだから、ハイスピード撮影。

 カーアクションのこと。皇居も首都高も撮影許可申請したが、当然下りなかった。でも、それで止めたら映画は成立しない。
 皇居のシーンは、7台のキャメラで追った。使ったバスがオンボロでスピードが出なかった。皇宮警察の警官には、「団体さんの駐車場はあっちですよー」なんて言われてしまって。仕方がないからコマ抜きをして、バスがスピードを出しているように見せた。撮影の時、俺が現場にいなかった。もしいたら、もう一回やらせただろう。そしたら、パクられるやつも出ただろうが。

●河瀬
 色んな綱渡り。その原動力はなんですか?

■長谷川
 許可が出ないことを違法でやるのは楽しいじゃないか。ガキが柿食うのとか。その映画現場バージョンだな。本質的に悪いと思ってない。本当に悪いことというのは、死んだ猫を撮るために猫を殺すことだ。

 首都高でのシーンは、のろのろ走るクルマで流れを止めて、その前何キロかを空けて撮った。製作担当は、延べ2、30名パクられている。

●河瀬
 その勇気というのは。

■長谷川
 勇気じゃないよ。柿食うのは勇気じゃないだろ。やんちゃというか。
 映画作るやつがそういうもの。

http://www.twitlonger.com/show/gmn5j2

 

さらに余談。色々ググって見つけた記事から引用。自分もこれには同意。全編に渡って音楽の使い方は工夫されていたと思う。

僕が「この映画の中で一番好きな音楽の場面は?」と聞かれたら、即答で首都高のカーチェイス・シーンと言うでしょう。その理由は普通なら躍動感や緊張感のある音楽が付けられる場所だと思うのに、ここでは全く逆でメロディのギターが静かに泣き、美しいストリングスが流れてくるからなんですね。 理由のない怒りや不満、どこへも向けられない苛立ち、行くあてもなく暴走する主人公の心情をうまく表現しているなぁ、という感じでとても印象的です。監督の指示もあったかもしれませんが、こうゆう曲を持ってくるセンスは素晴らしいと思います。

http://rittor-music.jp/bass/column/ilovebass/723

 

 

さらにさらに余談。ポリティカルフィクションに関しては「自分ならどう作るか、どういう展開にするか」をつい考えてしまうのだが、城戸のテロリスト像はイメージする姿に割と近い。

なぜなら「コミュニケーション不可能」なテロリストが一番怖いと思うから。そもそも民主主義的な対話自体が成立しない相手。無条件に暴力だけ差し出してくる人間。力が強かったり邪悪な考えを持ってたりする人も嫌だが、それ以上に「何を」「何故」するのか理解できない人ほど嫌なものはない。そもそも反論の仕様がない。つまり、こちら側も有無を言わさぬ暴力でしか応答できない相手はキツイ。(イスラム国を念頭に置いていることは言うまでもない。)

ただ、ポリティカルフィクションにおいて「こんなテロあったらどうしようもなくね?」という問題を提出するだけではいけないと思う。それに対して社会の側がいかに応えることができるか、その可能性を含めて提出しないと、一人の市民として卑怯だと考える。

 

映画の感想:マグノリア

ブギーナイツ』に続いてのPTA。オリジナル脚本でこれが作れるのはスゴイ。

興行的にはイマイチだったようだが、確かにこちら側が理解するために労力をかける必要のある作品ではあった。あと個人的に、彼はもっとポップで明るい中にも悲劇性のこもったような作風の方が向いているように感じる。要はブギーナイツ的な喜劇の方が得意なのではということ。

マグノリアは良作だし個人的にはこういう作品は好きだけれど、PTAの映画としてはブギーナイツの方が肌に合うものを作っているように感じた。あくまで向き不向きの問題だが。

後はやはり、音楽の使い方にこだわりが感じられる。多少やり過ぎな感もあったが。公開時のインタビューでの以下のコメントを拾って納得。

ブギーナイツ』も曲が前面に出ているわけですけれども、僕は、この『マグノリア』も一種のミュージカルだと考えておりまして、大変大きな位置を占めていると考えております。

 

この映画の大きな特徴であるテーマに関して。カエルと旧約聖書の関係性は他の記事で書かれている通りだと思う。そう言えば、『海辺のカフカ』でも蛙が降ってくるシーンがあるけどあれもそういった神秘性に由来しているのだろうか。

 

「罪と赦し」という問題はもちろん、ラストの方で登場人物が吐き出す「愛があるのに、そのはけ口が見つからないんだ。」というセリフがこの作品を象徴しているのかな。

あと興味深いのは、コカインの話と娘への性的イタズラ(未遂?)に関しては、「赦し」が適用されていないこと。

これによって、ただ「赦すことが大事!」と伝えるのではなく、警察官の台詞の通り「何を赦して、何を裁くのか。それが難しい。」というメッセージになっている。確かに何でもかんでも簡単に赦すわけにはいかないから、個人的に映画内でそれらの罪が赦されなかった(あるいは赦されないことを恐れて言えなかった)ことは非常に重要だと思う。

そりゃあ赦すことは大事だし、もちろんいつかは赦すのかもしれない。だけど、その瞬間が映画内で訪れる必要はない。もし作中で赦されてしまうと「そんなにアッサリ赦しちゃうのはなぁ、リアリティないなぁ」と感じてしまう。

赦しにはどうしたって時間が必要なものだし、赦される側ではなく赦す側の問題として、どうしても赦すことのできない人もいる。人によっては、赦せないけど前を向くしかない、っていう複雑さを背負って生きていく場合もあるわけで。

 

また、エンディングについては以下の様に述べている。

僕がいつも目標としているエンディングというのは、もっともハッピーで、もっとも悲しいということを念頭に置いて作ります。

 

確かに面白かったし、こういうメッセージ性のある作品はとても好きだ。だが、PTAはしっとり系の映画ではなく喜劇的な展開の方が向いているとも思った。ドストエフスキーじゃなくてゴーゴリ、太宰じゃなくて芥川ってことか??(『ゼアウィルビーブラッド』『インヒアレントヴァイス』『ブギーナイツ』とそうしたタイプの作品しか観ていないためバイアスがかかっているのかもれいないが、そう感じた。)

 

 

映画の感想:ブギーナイツ

 

PTA(学校のアレじゃないよ)ことポール・トーマス・アンダーソンがその名を知らしめた作品。『インヒアレント・ヴァイス』を先に観ていたせいか、撮り方や台詞回しでニヤニヤするシーンが多かった。

 

やはりPTAはテンポの良さが素晴らしい。観ていてストレスがない。シーンの移り変わりなどもぎこちなさが全くなく、極めてスムーズである。

テンポの良さとも通ずるのだが、軽いタッチが特徴的でもある。特に、死のあっけなさ。こういうもったいぶらない殺し方・死に方が好きである。暴力とは唐突に至ることが一つの特徴だと個人的に思っているのだが、PTAはそれを良く理解している。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のラストシーンにも言えることだが、彼はこういう「喜劇的」な撮り方が抜群にうまい。

また、脚本を自分で書いているのにも好感を持てる。個人的に脚本も自分で書く監督はシンガソーングライター>歌手みたいな感じでちょっと上に観てしまう。(別に監督の役割を否定するわけではないし、自分が脚本の立場で作品を観てしまう癖があるのは承知しているが。)

ストーリーは意外性と普遍性を兼ね備えている。ポルノ産業という少々トリッキーなテーマだからこそ、良い意味で普通のストーリーが光る。群像劇とそれぞれの起承転結がバランスよく丁寧に描かれている。一周周って再スタート、という終わり方などは完全に王道映画のそれである。

 

あと、PTAは映像と音楽がおしゃれ。そりゃ映画監督なのだから映像がおしゃれって当然だろ!ってのはその通りなのだが、いちいちオシャレというか、やりすぎない程度に捻りが利いている、ような気がする。雰囲気って大事だよね(笑)

 

 

2015年に観て面白かった映画たち

 

【今年公開ではない映画】

5位:秋のソナタ

4位:ノッキンオン・ヘブンズドア

3位:ノーマンズランド

2位:七人の侍

1位:マルホランドドライブ

【今年公開の映画】
5位:インヒアレントヴァイス

4位:セッション

3位:ナイトクローラー

2位:Mommy

1位:バードマン

次点はマッドマックスと6才のボクが、大人になるまでかな。

今年はまずアップリンクで野火、雪の轍、ルックオブサイレンスを観たいと思っています。

余談だけれど、講談社ブルーバックスから出ている『基準値のからくり』という本がとても面白い。

2015年個人的に面白かった本たち

 
2015年個人的に面白かった本たち (※今年「出された」本ではなく、今年「読んだ」本)

【新書編】
10位:タテ社会の人間関係/中根 千枝
まあ有名な作品。こうした社会心理学では、山本七平の『空気の研究』も非常に面白い。また、こういった「日本文化論」(『菊と刀』『ジャパン・アズ・ナンバーワン』etc)自体をメタ的に知りたければ『日本文化論の変容』が良い。特に驚きがある内容ではないが、それなりに上手くまとまっている。

9位:目の見えない人は世界をどう見ているのか/伊藤 亜紗
馬場歩きしている時にタイトルと全く同じことが気になって買ったら面白かった。健常者を4本脚の椅子だとすれば、視覚障碍者には3本脚の椅子なりのバランスの取り方があるという着想。こういう考えたかができる人間になりたい。
この本みたいな「人間の可能性」みたいな話は、知的好奇心をくすぐられる。また、障碍者とどう向き合うかという問題にもヒントを与えてくれる。

8位:教養主義の没落/竹内洋
戦前戦後の日本における、若者と「教養」の関係を探っている。これと関連性の高い『「戦争体験」の戦後史』も中々面白かった。正直関心の持たれにくい分野だけれど、一つの歴史として知っておくと案外捗るのかなーとは思う。「教養主義」も「半知性主義」とセットで最近流行りかけているし。それにしても、やっぱり中公新書はクオリティが高い。

7位:資本主義の終焉と歴史の危機/水野 和夫
別に話自体は今更珍しくもないのだが、新書でシンプルによくまとまっている。資本主義の未来とか恐ろしそうだなーってボンヤリ考えている人におすすめ。とりあえずこれだけ読んでおけば、最低限の話はできる。

6位:著作権とは何か/福井 健作
ロゴ問題でガタガタぬかす奴は全員せめてこれは読めと言いたい。同じ著者の『「ネットの自由」vs著作権』『誰が「知」を独占するのか』『著作権の世紀』まで読めば、現代のコンテンツをめぐる環境や諸問題が政治と経済の両面から理解できる。非常に優れた書き手。

5位:コンテンツの秘密/川上 量生
コンテンツ産業にかかわる人はマスト本だと思う。やっぱりこの人は話のオリジナリティが際立っているから面白い。その上でカリスマ経営者にありがちなウザさがない。良い意味で一般人なんだなと思う。ちなみに『ニコニコ哲学 川上量生の胸の内』も面白い。

4位:わかりあえないことから~コミュニケーション能力とは何か~/平田 オリザ
わかりやすく、面白く、深く、ためになる。これぞ新書って感じ。特別何かの専門知が身につくわけではないが、生きる上でとても役立つ。日本語における「対話」の少なさなど、言われると「確かにな~」と納得できる話がたくさん詰まっている。余談だが、この本を読むまで平田オリザは女性だと思っていた…。同じく講談社現代新書で出ている『演劇入門』も面白い。

3位:イスラーム国の衝撃/池内 恵
イスラム国のことを少しでも考えるなら絶対に読むべき本。これを読むのと読まないのでは、イスラム国関連のニュースや議論に対する反応が全く異なる。

2位:差別と貧困の外国人労働者/安田 浩一
在特会」への取材でも知られるジャーナリストによる、技能実習生などへのルポ。この問題は「Made in Japan」礼賛時代の今、一人でも多くの人が知るべき。読んでいて恥ずかしくなる。
(講談社G2での連載は、この本よりも新しい話だしタダで読めるからおすすめ。)

1位:なぜ戦争は伝わりやすく平和は伝わりにくいのか/伊藤 剛
戦争などの政治問題を、コミュニケーションの視点から読み解く本。著者はシブヤ大学などを設立した元広告代理店の人だから、話もわかりやすい。田中先生のメディア論の講義に通ずる面白さ。入門書くらいのレベルだから誰でも理解できる。

【ノンフィクション編】

5位:本は死なない/ジェイソン・マーコスキー
AmazonKindleの開発に携わった著者が語る、電子書籍を中心とした本の未来。何より良いのは、著者が「テクノロジー加速進化肯定派」「情緒執着派」という相対する両方の立場をよく理解し、自分自身もその狭間に立っていること。これは、MITで数学とライティングを専攻した著者の経歴が影響しているはず。
議論のバランスがとれているので、この一冊を読むだけでコンテンツ・メディアの置かれた現状や未来への展望を善し悪し含めて考えることが可能である。こういった二項対立の問題を冷静に、優しく語ることができる立場の人間は貴重である。

4位:裸でも生きる/山口 絵里子
マザーハウス創業者の話。続編の2も面白い。見城徹の『編集者という病い』を読んだ時と同じことを感じたのだが、こういう人は「キ○ガイ」なんだと思う。快楽原則のバランスがおかしくて、他の人と全然違う所にある。その「歪み」を才能と呼ぶなら一種の天才ではある。
だから「この人すごいなあ」と思うのと「自分がそうなりたい」と思う間には絶望的な落差がある。二十歳を過ぎた辺りから「ぶっちゃけこの人の人生は大変そうだなあ…」と感じるのが一般的な感覚ではないかと。(多数派と少数派のどちらが正しいとか優れているとかいう価値判断はないけれど)

3位:中国化する日本/與那覇
ザックリと近年の日本の動向を把握するための歴史教養書。最近の日本の政治経済における様々な改革(あるいは改悪)を包括的に捉える視点が得られる。案外、こういう専門知と一般教養を繋ぐ王道の本って最近は少ないような。

2位:内向型人間の時代/スーザン・ケイン
シャニカマエルマンの必読書。要約だけでも知っておくと役に立つかと(全部読むのは面倒だし)。現代は(残念ながら)「人格」ではなく「性格」の時代、という著者の主張には大いに納得できる。

1位:敗戦後論/加藤 典洋
戦後70年を迎えた今、戦後50年の時点で書かれたこの本が持つ妥当性は(悲しいことに)ますます高くなっている。「ねじれ」の直視、右翼と左翼はジキルとハイド、といった話は本当にその通りである。
一瞬でも戦後日本について考えたいというちょっぴり真面目な気持ちが生まれたら読むべき。白井聡の『永続敗戦論』も、言っていることのロジックは同じだと思う。


【小説編】※近代小説の流れそのものを知りたければ、三田誠広(早稲田出身の芥川賞作家)の『超明解文学史』がわかりやすくてオススメ。

5位:さようなら、ギャングたち/高橋源一郎
最近はSEALDs関連でよく出てくる方だが、その政治的姿勢への賛否とは関係なく面白い小説。正直こうしたポップ文学(って呼ぶらしい)は論理的に考えると意味不明になるので、合わない人にはトコトン合わない。ただ、意味の分からないものを意味のわからないままで「なんとなく」面白いと感じられる人にはオススメできる。Dont'think,feel!ってタイプの作品。

4位:戦争の悲しみ/バオ・ニン
ベトナム戦争に従軍して奇跡的に生き残った、生き残ってしまった著者による戦争文学の金字塔。「悲しみ」「哀愁」という言葉がぴったり。秋の夜長に読みたい一冊。(個人的に、この「悲しみ」は遠藤周作の『黄色い人』で頻出する「疲れ」と似た感覚なのかと思った。)
戦争文学全般で言えば、定番中の定番だが大岡昇平は面白い。

3位:枯木灘/中上健次
被差別部落が舞台だが、決して差別などがテーマになっているわけではない。読んでいて気持ち良い作品ではないしストーリーに抑揚があるわけではないから退屈するかもしれないが、それでも一冊読み終わると不思議な気分になる。三島由紀夫の文章がよく切れる日本刀だとすれば、中上健次は鈍器で殴るような、徐々に重みの伝わってくる文章だと思う。
ちなみに、被差別部落に関しては上原善広のノンフィクション(『日本の路地を旅する』『被差別の食卓』)が面白い。

2位:苦界浄土/石牟礼 道子
『戦争の悲しみ』にも通ずる「人間の尊厳」「魂の救済」という普遍的かつ根源的なテーマを、瑞々しく描き切っている。
解説を読んで確信したが、この人は小説家というよりある種の「イタコ」なんだと思う。だからなのか、読んでいる最中にこちらも作品へ潜っていくような、スポーツでいう「ゾーンに入った」ようなトリップ感覚が生じる。それが長く続くほど「時間を忘れるほど良い作品」になるのだと思うのだが、この作品はその点でベストである。

1位:万延元年のフットボール/大江 健三郎
読みにくいし長いし重いし、あまり人にオススメできる作品ではない。ただ、個人的にはとても好きな一冊。「悪文」とも称される過剰に修飾・倒置がなされた文体に、四国の山奥という閉鎖世界。これらが重なり合って、時代の「閉塞感」「停滞感」が露わになっている。美しいものや爽快感を表現できる人は確かにスゴイが、こうした「不快感」を言葉に変換できる人はもっとスゴイと思う。恋愛映画よりホラー映画を好む人は余計にそう感じるのかも。
「熱い期待の感覚」や「本当のこと」など、自分が感じていたことを言葉に表してくれていて、救われたような気持になった。特に終盤にかけての蜜と鷹の会話には痺れる。

歴史は終わらない、けれど・・・

フランシス・フクヤマの『The End of History?』を読んでいる。

 What we may be witnessing in not just the end of the Cold War, or the passing of a particular period of post-war history, but the end of history as such: that is, the end point of mankind's ideological evolution and the universalization of Western liberal democracy as the final form of human government.

 

 For human history and the conflict that characterized it was based on
the existence of "contradictions": primitive man's quest for mutual recognition, the dialectic of the master and slave, the transformation and mastery of nature, the struggle for the universal recognition of rights, and the dichotomy between proletarian and capitalist. But in the universal homogenous state, all prior contradictions are resolved and all human needs are satisfied.

 

 The end of history will be a very sad time. The struggle for recognition, the
willingness to risk one's life for a purely abstract goal, the worldwide ideological struggle that called forth daring, courage, imagination, and idealism, will be replaced by economic calculation, the endless solving of technical problems, environmental concerns, and the satisfaction of sophisticated consumer demands. In the post historical period there will be neither art nor philosophy, just the perpetual care taking of he museum of human history.

 

彼にとっての「世界」はなんと狭いのだろう。ただ、おそらくフクヤマの様に単純な論を考える人は大勢いた。重要な点は①フクヤマの様な知識人がこうした考えを抱いたこと②この論文が大きな社会的反響を呼んだこと、である。

今から振り返って、何と愚かな考えだと切って捨てることは簡単である。だが、逆に言えば当時の「空気」はこの論文を生み出す程の高まりだったのだろう。確かにベルリンの壁崩壊からソ連の終焉に至る流れをリアルタイムで見れば、一つの時代に区切りが着いたと感じるのは自然なことだと思う。(=歴史の終わり、とはならないが)

なので、当時の雰囲気や言論状況を、その時代を生きていなかった自分たちの世代が感じるという意味では、この論文は貴重な資料なのである。フクヤマの「言い過ぎ」からそうした背景を感じる。

 

―余談

仮に普遍主義と文化相対主義を二項対立としてとらえるなら、個人的には文化相対主義の側に寄っている。だからフクヤマハンチントンの議論はイマイチ肌に合わなく、サイードの方が面白いと感じる。(ただし、ハンチントンの議論はフレームワークの提示という点では価値があると思う。)

普遍主義=西欧的価値観でなければ、つまりもっと以前の、愛や平和や自由といった漠然としたものならアリなんだけどなあ。結局そうした「普遍」は各人が抽象的にイメージせざるを得ないし、文化的背景により大きく異なる。別に普遍主義の否定=自由や平和の否定ではなく、それらの概念をどう定義するかは文化により異なるよねっていう話なわけで。

よく相対主義ニヒリズムに陥ると言われるが、個人的には虚構に寄りかかって後で失望するよりかは(例えば民族という名の宗教)、ニヒリズムと闘いながら生きる方がマシだと思うんだよなあ。というか、ニヒリズムに陥るのは「人や社会には何かしらの意味がある」ことを前提にしているからでは?そもそも意味などなくて、後付けしてくものだろうに。